今井 慶松(読み)イマイ ケイショウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「今井 慶松」の解説

今井 慶松
イマイ ケイショウ


職業
箏曲家(山田流)

肩書
東京音楽学校教授,日本三曲協会会長 帝国芸術院会員〔昭和17年〕

本名
今井 新太郎

生年月日
明治4年 3月25日

出生地
神奈川県 横浜市

経歴
横浜で西洋雑貨食料品輸入業を営む西島屋の長男として生まれる。明治7年4歳で失明。塙保己一に憧れて学者を志していたが、祖母の三味線にうまく調子を合わせる様子を見た両親が音楽の道に進むように誘導し、10年7歳で三味線(長唄)に触れた。12年9歳からは渥美千代春に箏を習い、10歳より望月栄喜、三上慶翁に師事。また千代春の夫である学者・渥美愛山にかわいがられて和歌国学なども修め、後年には出稽古先の主人で、明治天皇の侍講を務めた元田永孚にも薫陶を受けた。18年15歳で上京、3代目山勢松韻の内弟子となって修行に明け暮れ、やがて、白い指で鮮やかに琴を奏でる手さばきから“白ねずみ”と評判を呼び、19年それを耳にした昭憲皇太后に召されて有栖川宮邸で腕前を披露したことが最初の御前演奏となった。20年自作の歌詞に曲をつけた処女作「三保の春」を作曲。若手の実力者として目され、24年独立稽古所の開設、25年には慶松の芸名を許された。また入門まもなくから師の助手として東京音楽学校(東京芸術大学)に通って楽譜の研究も行い、31年師の後任として東京音楽学校(東京芸術大学)助教授となり、35年教授に就任。大正6年同門の萩岡松韻の楽成会結成に刺激を受け、移風会を創立して会長となった。12年の山田流箏曲協会創設に際しては当初顧問に就いたが、2ヶ月後には萩岡と入れ替わる形で会長となる。昭和15年日本三曲協会初代会長。17年山田耕筰、信時潔安藤幸と並んで芸術院会員に選ばれた。「御代万歳」「醍醐花見」「鶴寿千歳」「海上波静」「十返りの松」「日嗣の御子」「成田詣」「峰の松風」などを作曲した。

受賞
勲四等瑞宝章〔大正15年〕

没年月日
昭和22年 7月21日 (1947年)

家族
長女=中能島 慶子(山田流中能島派5代目宗家),孫=中能島 弘子(中能島派6代目宗家)

親族
女婿=中能島 欣一(中能島派4代目宗家),義弟=鵜沢 総明(弁護士・政治家)

伝記
新輯 内田百閒全集〈第12巻〉 随筆億劫帳,鬼園の琴 内田 百閒 著(発行元 福武書店 ’87発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「今井 慶松」の解説

今井 慶松
イマイ ケイショウ

明治〜昭和期の箏曲家(山田流) 東京音楽学校教授;日本三曲協会初代会長。



生年
明治4年3月25日(1871年)

没年
昭和22(1947)年7月21日

出生地
神奈川県・横浜

本名
今井 新太郎

主な受賞名〔年〕
勲四等瑞宝章〔大正15年〕

経歴
4歳で失明し、7歳で箏を始め、9歳で渥美千代春、10歳から望月栄喜、三上慶翁らに師事。15歳で上京、3代目山勢松韻の門に入り、明治25年慶松の名を許された。31年松韻の後任として東京音楽学校助教授、35年教授。大正6年移風会を創立、12年山田流箏曲協会が組織され会長。15年日本三曲協会初代会長。17年芸術院会員。「三保の松」「新晒」「四季の調べ」「十返りの松」などを作曲した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「今井 慶松」の解説

今井 慶松 (いまい けいしょう)

生年月日:1871年3月25日
明治時代-昭和時代の箏曲家。東京音楽学校教授;日本三曲協会会長
1947年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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