萩岡松韻(読み)はぎおかしょういん

改訂新版 世界大百科事典 「萩岡松韻」の意味・わかりやすい解説

萩岡松韻 (はぎおかしょういん)

山田流箏曲家。初世(1864-1936)は本名萩原伊之助,のちに源意とも。数え4歳で失明,伊勢の大松検校について盲人社会に入り,1871年(明治4)勾当の位を得て萩岡姓を名のる。箏曲は,当初,山田流山勢系の馬場美勢に師事,74年3世山勢松韻の直門となり,85年松柯芸名を授けられる。師の没後,4世山勢福を助けて,今井慶松とともに山勢派を代表,松韻の芸名を名のる。87年来東京盲啞学校(現,筑波大学付属盲学校)に勤め,いわゆる盲学校派の総帥として久本玄智,斎藤松声,山川園松らを育てた。箏曲楽成会,徳華会などを主宰,鑑賞本位の演奏会を開いたり,楽譜を出版。《俊寛》(1901),《鞆の音(とものね)》(1914)以下十数曲を作曲。2世は長男の信通(1893-1966),3世は2世の次男信雄(1927-78),4世は3世の長男信一(1957- )がそれぞれ襲名
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「萩岡松韻」の意味・わかりやすい解説

萩岡松韻(1世)
はぎおかしょういん[いっせい]

[生]文久4 (1864).2.10. 江戸
[没]1936.1.27. 東京
山田流箏曲家。本名萩原伊之助,のちに源意と改める。幼時に失明し,最初紀州藩(和歌山藩)との縁により伊勢松坂の生田流の大松検校に入門し,明治4(1871)年に勾当となるが,京都に萩原検校がいたので,萩岡を名のる。師匠の死去により山勢検校門下の馬場美勢に山田流箏曲を学ぶ。美勢が同地を去ったため 9歳から 2年間生田流の三津田千代につく。1874年東京で 3世山勢松韻の門に入る。1885年萩岡松柯(しょうか)の芸名を授けられた。師の没後 1910年松韻と改めた。弟弟子の今井慶松の箏の技に対し,美声に恵まれ歌に優れていた。1911年,長らく助手を務めていた東京盲学校(のち筑波大学附属視覚特別支援学校)の教諭となり,1913年11月高等官(三等),1931年勅任待遇となる。『俊寛』『紀念の鷹の羽(かたみのたかのは)』『鞆の音』などの作品がある。東京盲学校に学んだ門下から久本玄智,斎藤松声,山川園松らが出た。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「萩岡松韻」の解説

萩岡 松韻(3代目)
ハギオカ ショウイン


職業
箏曲家(山田流)

本名
萩原 信雄

別名
前名=萩岡 松柯(3代目)

生年月日
昭和2年 11月14日

出生地
東京

学歴
豊山中学校卒,NHK邦楽技能者育成会(第1期)修了

経歴
6歳から父に学び、昭和27年3代目萩岡松柯を継ぎ、41年父の死後、3代目松韻を襲名。萩岡研進会、作品発表会を熱心に開き研鑚に努めた。

没年月日
昭和53年 7月31日 (1978年)

家族
父=萩岡 松韻(2代目),長男=萩岡 松韻(4代目)


萩岡 松韻(2代目)
ハギオカ ショウイン


職業
箏曲家(山田流)

本名
萩原 信通

別名
前名=萩岡 松柯(2代目)

生年月日
明治26年 8月30日

出生地
東京・下谷

学歴
東京高等師範学校付属中学校卒

経歴
大正7年2代目萩岡松柯を名乗った。昭和11年父の死後2代目松韻を襲名、13年一門の萩岡会を創立した。

没年月日
昭和41年 10月3日 (1966年)

家族
父=萩岡 松韻(初代),二男=萩岡 松韻(3代目)


萩岡 松韻(初代)
ハギオカ ショウイン


職業
箏曲家(山田流)

本名
萩原 伊之助

生年月日
文久4年 2月10日

出身地
江戸(東京都)

経歴
4歳で失明、8歳の時大松検校に師事し生田流箏曲を学ぶ。その後山田流に転向、明治8年3世山勢松韻に師事。33年東京盲学校の教師になり、後に勅任教授に就任。しばしば御前演奏の光栄をになった。41年師の遺言により松韻の名を継ぐ。処女作「俊寛」を代表作に、他13曲の作品があり、レコードにも吹き込まれている。

没年月日
昭和11年 1月27日 (1936年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「萩岡松韻」の解説

萩岡 松韻(3代目)
ハギオカ ショウイン

昭和期の箏曲家(山田流)



生年
昭和2(1927)年11月14日

没年
昭和53(1978)年7月31日

出生地
東京

本名
萩原 信雄

別名
前名=萩岡 松柯(3代目)

学歴〔年〕
豊山中学校卒,NHK邦楽技能者育成会(第1期)修了

経歴
6歳から父に学び、昭和27年3代目萩岡松柯を継ぎ、41年父の死後、3代目松韻を襲名。萩岡研進会、作品発表会を熱心に開き研鑚に努めた。


萩岡 松韻(1代目)
ハギオカ ショウイン

明治〜昭和期の箏曲家(山田流)



生年
文久4年2月10日(1864年)

没年
昭和11(1936)年1月27日

出身地
江戸

本名
萩原 伊之助

経歴
4歳で失明、8歳の時大松検校に師事し生田流箏曲を学ぶ。その後山田流に転向、明治8年3世山勢松韻に師事。33年東京盲学校の教師になり、後に勅任教授に就任。しばしば御前演奏の光栄をになった。41年師の遺言により松韻の名を継ぐ。処女作「俊寛」を代表作に、他13曲の作品があり、レコードにも吹き込まれている。


萩岡 松韻(2代目)
ハギオカ ショウイン

大正・昭和期の箏曲家(山田流)



生年
明治26(1893)年8月30日

没年
昭和41(1966)年10月3日

出生地
東京・下谷

本名
萩原 信通

別名
前名=萩岡 松柯(2代目)

学歴〔年〕
東京高等師範学校付属中学校卒

経歴
大正7年2代目萩岡松柯を名乗った。昭和11年父の死後2代目松韻を襲名、13年一門の萩岡会を創立した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「萩岡松韻」の解説

萩岡松韻(初代) はぎおか-しょういん

1864-1936 明治-昭和時代前期の箏曲(そうきょく)家。
文久4年2月10日生まれ。4歳で失明。明治4年勾当(こうとう)になり,7年から山田流の初代山勢(やませ)松韻(山勢家3代)に師事。43年松韻を名のる。東京盲唖学校教諭。門下に久本玄智(ひさもと-げんち)がいる。昭和11年1月27日死去。73歳。江戸出身。本名は萩原伊之助,源意。

萩岡松韻(2代) はぎおか-しょういん

1893-1966 大正-昭和時代の箏曲(そうきょく)家。
明治26年8月30日生まれ。初代萩岡松韻の長男。山田流。父にまなび,大正7年2代萩岡松柯(しょうか)を名のる。昭和11年2代を襲名。13年一門の萩岡会を創立した。昭和41年10月3日死去。73歳。東京出身。東京高師付属中学卒。本名は萩原信通。

萩岡松韻(3代) はぎおか-しょういん

1927-1978 昭和時代後期の箏曲(そうきょく)家。
昭和2年11月14日生まれ。2代萩岡松韻の次男。山田流。父に師事し,昭和27年3代萩岡松柯(しょうか)を名のる。41年3代を襲名。昭和53年7月31日死去。50歳。東京出身。豊山中学卒。本名は萩原信雄。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「萩岡松韻」の解説

萩岡 松韻(初代) (はぎおか しょういん)

生年月日:1864年2月10日
明治時代-昭和時代の箏曲家
1936年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の萩岡松韻の言及

【山勢派】より

…なお,86年から訓盲啞院(後の東京盲啞学校,現在の筑波大学附属盲学校)をも兼務。門下には,初世萩岡松韻今井慶松のほか,女流演奏家も数多く輩出。作品には,前記《都の春》のほか《朧月》(1874),《花の雲》(1880),《松島八景》(1892),《四季の友》《新年》などがある。…

※「萩岡松韻」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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