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元田永孚 もとだ ながざね

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美術人名辞典の解説

元田永孚

幕末・明治の漢学者。男爵。肥後熊本生。字は子中、号は東野、別号に猿楽・茶陽等。幼少より学を好み、藩校時習館に学ぶ。明治維新後、明治天皇の御侍講となる。また皇后宮大夫・宮中顧問官枢密顧問官を歴任。明治24年(1891)歿、74才。

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デジタル大辞泉の解説

もとだ‐ながざね【元田永孚】

[1818~1891]漢学者。肥後の人。号、東野。明治維新後、宮内省に出仕して明治天皇侍講を務め、枢密顧問官となり、教育勅語の草案作成に尽力した。著「幼学綱要」など。

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百科事典マイペディアの解説

元田永孚【もとだながざね】

幕末から明治の儒学者。号は東野(とうや)。肥後(ひご)熊本藩士の家に生まれ,藩校時習館(じしゅうかん)に学ぶ。1871年宮内省に出仕。侍講をつとめ明治天皇の信任を得た。
→関連項目佐佐木高行

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

元田永孚 もとだ-ながざね

1818-1891 江戸後期-明治時代の儒者。
文政元年10月1日生まれ。肥後熊本藩士で,横井小楠(しょうなん)らの実学党に属した。明治4年宮内省に出仕。明治天皇の侍講,のち宮中顧問官,枢密顧問官となる。国民教化をめざし,修身書「幼学綱要」の編集,教育勅語の起草にあたった。明治24年1月22日死去。74歳。字(あざな)は子中。通称は八右衛門。号は東野(とうや)。

元田永孚 もとだ-えいふ

もとだ-ながざね

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朝日日本歴史人物事典の解説

元田永孚

没年:明治24.1.22(1891)
生年:文政1.10.1(1818.10.30)
幕末・明治前期の儒学者,明治天皇の側近。名は永孚,字は子中,初め伝之丞のち八右衛門と称す。号は東野また茶陽,東皐,猿岳樵翁。熊本藩士元田三左衛門の長男に生まれる。母は津川氏。文政11(1828)年より藩校時習館に入り,天保8(1837)年はじめて寮長横井小楠と相識り学問の指導を受ける。14年長岡監物,横井小楠,下津休也,荻昌国と純粋朱子学(=実学)を志し『近思録』会読を始めた。以後永孚は小楠の強い思想的影響を受け,自らはその祖述者を以て任じていた。安政5(1858)年家督を継ぐ。文久2(1862)年末京都留守居となり諸藩士と応接,また以後も藩にあって幕末維新期の藩政に尽力した。明治3(1870)年5月細川護久が藩知事となり,実学党による藩政改革で侍読となる。 翌4年藩命で上京。6月宮内省出任,侍読(のち侍講)となり明治天皇に『論語』を進講。以後儒教的徳治主義の理想による天皇の君徳輔導と天皇親政の実行をめざし,三条実美岩倉具視に建言し,また士族反乱自由民権運動に対し,人心収攬の急務を論じ,10年宮中に設置された侍補に就任,11年大久保利通暗殺を機に,佐々木高行,吉井友実,土方久元らと薩長参議政治批判の立場から「天皇親政」運動を展開。12年侍補廃止後も侍講として宮中に留まり,明治14年政変には谷干城らの中正党を支持するなどした。また12年「教学大旨」を起草し,維新後の教育のあり方をめぐり伊藤博文と論争,13年『国憲大綱』において国教主義的国憲論の立場をとった。その国教主義は憲法制定からは排除されたが,のちに23年教育勅語の起草に井上毅と協力し,帝国憲法と教育勅語による体制構築に結実し得たと評せよう。対外問題では特に条約改正問題に関心を持ち,内地雑居や外国人裁判官任用に反対し,20,22年の井上,大隈両外相の改正に強く反対した。その間19年宮中顧問官,21年枢密顧問官となり,一貫して天皇の信任のもと側近に侍した。24年1月風邪で病勢つのり,特旨により男爵を授けられた。<著作>「還暦之記」「古稀之記」(『元田永孚文書』1巻)<参考文献>海後宗臣『元田永孚』,沼田哲・元田竹彦『元田永孚関係文書』

(沼田哲)

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世界大百科事典 第2版の解説

もとだながざね【元田永孚】

1818‐91(文政1‐明治24)
明治天皇側近の儒学者。号は東野。名は〈えいふ〉ともいう。熊本藩に生まれ,藩校時習館に学ぶ。横井小楠の影響をうけ実学派に参加。維新後の1871年(明治4)大久保利通らの推挙により宮内省に入り,侍読,のち侍講,侍補となって死去までの20年間,天皇への進講をつづけ,帝王学の教授にあたった。78‐79年他の侍補とともに天皇親政の実をあげるべく運動を起こし,伊藤博文ら内閣側と衝突したが,運動は失敗に終わり侍補制度は廃止,宮中・府中の別が確立された。

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大辞林 第三版の解説

もとだながざね【元田永孚】

1818~1891) 幕末・明治の儒学者。肥後の人。号は東野。明治天皇の侍講。教育勅語の起草に参与。著「幼学綱要」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

元田永孚
もとだながざね

[生]文政1(1818).10.1. 熊本
[没]1891.1.21. 東京
幕末~明治の漢学者,教育家。儒教的皇国思想に基づいて教学政策に参画した代表的人物。肥後藩士の家に生れ,藩校時習館に学び,横井小楠らの影響を受ける。藩政に参画後退いて自宅に五楽園を開き後進の育成に努めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

元田永孚
もとだながざね
(1818―1891)

明治天皇の侍講・侍補、側近奉仕者として活躍。熊本藩出身。藩校時習館に学び横井小楠(しょうなん)の教示を受ける。現実への適用を課題とする実学としての朱子学に学問的立脚点を置く。京都留守居、側用人(そばようにん)兼奉行、藩知事の侍読などを務める。1871年(明治4)藩命により上京、宣教使、少参事。同年5月宮内省出仕、侍講となり以後明治天皇の君徳輔導に尽力。立憲制に対しては天皇の徳治を、教育政策では開明派の知的啓蒙に対して仁義忠孝の徳育を主張。1888年枢密顧問官となる。1879年には「教学聖旨」を起草、また教育勅語の草案作成に参画し、1882年には『幼学綱要』を刊行、明治公教育の理念形成を主導。[森川輝紀]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の元田永孚の言及

【教育勅語】より

…儒教主義の復活である。これを促進した天皇の侍講元田永孚が勅命によって編纂した《幼学綱要》(1882)は,全国の学校に修身書として下付された。一方,鹿鳴館の舞踏会に代表されるような,条約改正のための欧化主義が華族や官僚上層部にひろがっていた。…

【教学聖旨】より

…1879年8月,天皇の名で出された教学の根本方針。元田永孚が起草。洋風を競い智識才芸の末にはしる傾向を戒め,仁義忠孝の精神の育成を中心にすえた徳育が教育の基本であるとした。…

【幼学綱要】より

…明治天皇の勅令により侍講元田永孚(ながざね)によって編纂され1882年刊行された修身書。一時《童蒙修身綱要》とも称した。…

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