今堀郷(読み)いまぼりごう

日本歴史地名大系 「今堀郷」の解説

今堀郷
いまぼりごう

保内下四郷の一つで、保内商業の中核的役割を果し、また一方で中世惣村の一典型としての姿をもみせた地域として著名。正和三年(一三一四)三月二三日付の「いまほりのかう」内の畠一段を売却したという源次郎畠売券(今堀日吉神社文書、以下とくに断らない限りは同文書)が郷名の初見史料と考えられる。得珍とくちん保の野方に属し、水利を欠き畑作をもっぱらとする郷村であった。一四世紀後半にかけて今堀と南の蛇溝へびみぞ郷域を中心に田方からたか井余水を受けて徐々に水田化が進行したものの、冬季や井水過多期に取水した用水を灌漑期まで溜池などに貯えておく必要があった。野方の水田化にあたって高井の南流路(南高井川)が開削され、今堀という地名もこの新水路の開削にちなむものと推定されている。売券類にみえる水田の所在地は南高井みなみたかゆ川の南地区が大半で、この地域がいちおうの水田化を達成したのは一六世紀以後のことであろう。

〔今堀日吉神社〕

鎌倉後期以降中出なかでを中心として東在家ひがしざいけ・西在家の三集落からなり、家数はおよそ七〇戸。中出集落の北には惣結合の核となった十禅師じゆうぜんじ(十禅師権現、現日吉神社)と惣の森が存在した。社内には庵室・如法経によほうきよう道場・倉の施設があり、庵室には得珍保にかかわる文書と今堀郷の共有文書が大量に残されることになった。これが今日、中世の商業史や惣村史の基本的な史料として著名な今堀日吉神社文書(国指定重要文化財)である。郷内を南北に八日市と日野(現蒲生郡日野町)を結ぶ最短路で馬による伊勢越によく用いられた伊勢大道(西大道・御代参街道)が通り、北境界には東西に走る佐々木ささき道もあって、交通に便利な地域でもあった。十禅師社の勧請時期は今のところ一三世紀半ば以前と考えられており、その神田の設定が一三二〇―三〇年代と推定されることから、鎌倉末頃までに同社に宮座が形成され、今堀郷の惣結合の中心としての機能を果すことになった。

中世の十禅師社をめぐる神祭を軸にした多様な年中行事が確認される。年頭にあたり神社の大戸を開いて神の出現来臨を表す大戸開(現在は元始祭)や御供行事、毘沙門講・薬師堂仁王会・結鎮、そのほか山神祭祀・大般若経・頭ざし・十禅師祭・百万遍念仏・彼岸念仏・山王祭・盆行事・八幡講などがおもなもので、こうした宗教行事を維持・管理し宮座を運営するために、同社は多くの神田畠や林野を所有、また郷内のさまざまな講も講中としての田畠をもった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「今堀郷」の意味・わかりやすい解説

今堀郷【いまぼりごう】

保内(ほない)商人

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