今山村(読み)いまやまむら

日本歴史地名大系 「今山村」の解説

今山村
いまやまむら

[現在地名]大和町大字久留間くるま字今山・西野にしの横馬場よこばば

佐保川島そうこうじま郷に属し、西野・横馬場・平石ひらいしを含んでいる。現大和町の西端、多くの山地を擁する地域である。

山地から平地への南斜面で先土器時代の細石器船塚ふなづか古墳の北東部から採集され、縄文時代の鐘崎式土器や御領式土器、さらに石鏃・石匙・石斧・石錘が今山の各地で数多く発見されている。弥生時代のものとしては、今山八幡籠いまやまはちまんごもり合口甕棺・箱式石棺が発見されて原始文化が発展していたことを物語る。とくに古墳時代になると南面の平地の開発が進み、佐賀県内最大の規模をもつ船塚古墳(前方後円墳)男女神社西なんによじんじやにし古墳(前方後円墳)、男女神社西南円墳、男女神社東方古墳群(六七基の小円墳)野田山のだやま古墳群など古墳の数が多い。ただ現在は蜜柑園の造成のため破壊されたものが多い。

今山村
いまやまむら

[現在地名]北野町今山

筑後川支流の旧陣屋じんや川下流右岸に位置し、東はなか村に接する。中世は北野庄のうちで、文禄二年(一五九三)一〇月晦日の毛利家加判衆連署打渡状(北野天満宮文書)北野村の坪付二六筆中に村内の「大鳥井」「四本木」「江かしら」などがみえ、北野神領とされている。元禄三年(一六九〇)村内に北野新村が成立。本高一千六五石余(元禄国絵図)。うち二石余は北野天神領(「元禄記」新有馬文庫)。正徳二年(一七一二)床島とこしま用水の灌漑地域となるが、村南部に筑後川が大きく蛇行して洪水のつど荒地となるため、高良こうら村・鳥巣とりす村とともに久留米藩庁に新川開削を嘆願、享保一〇年(一七二五)領内総郡役で鯰久保開なまずくぼびらきが完成、これに伴い古川敷二四町余の開地(古川開)は三ヵ村の共有地となり、物成二一二俵余・夏物成銀五六四匁余を上納した(旧家由緒書)

今山村
いまやまむら

[現在地名]大牟田市今山

三池新みいけしん町の南、三池山(三八八・一メートル)の西麓一帯にある。東は三池山および北へ続く山稜を隔てて肥後国。北部を堂面どうめん川が北流する。文禄四年(一五九五)の高橋統増(立花直次)宛の知行方目録(三池立花家文書)には「いま山」とあり、高一千一八三石余。元和七年(一六二一)から三池藩領となる。同年の郡村帳(同文書)では玄蕃高一千一八三石余・新田高三石余・玄蕃寺社領高三石余、小物成は山手米五石余・樹木年貢米二斗余。寛永四年(一六二七)当村の田地八町八反余を召上げここに新町が立てられた(「覚書」中島家文書)

今山村
いまやまむら

[現在地名]久留米市草野町草野くさのまちくさの

草野町の西に位置する。屋敷地・耕地とも山辺やまべ往還南にある。本高は一七四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一八〇石・役高一八五石。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗六升、人数八一、馬六(上三郡取調手鑑)。庄屋は草野町庄屋が兼帯。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一八四石。文化四年(一八〇七)畝付帳では本田九町六反余・開田一畝余・畑五町二反余・居屋敷二反余。

今山村
いまやまむら

[現在地名]美祢市豊田前とよたまえ町今山

麻生下あそうしも村の南にある山間の小村。集落は村内を貫流する日野ひの(木屋川支流)の流域に散在する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属した。

村名は「地下上申」に出るが、近世初頭までは麻生村に属した(→麻生上村。近世末期の長府藩御領内図には村高七八〇石とあり、長府藩士の知行地であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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