改訂新版 世界大百科事典 「任那日本府」の意味・わかりやすい解説
任那日本府 (みまなにほんふ)
《日本書紀》引用の《百済本記》(《百済記・百済新撰・百済本記》)にみえる6世紀中葉の加羅地方(朝鮮南部)の政治組織。ただし現在の学界では,任那日本府の存在を全面的に否定する説や,名称の造作説,その政治組織や歴史記述に疑問をもつ説などが錯綜(さくそう)し,定説がない。それゆえ,任那日本府に関連する次の4項目の基本問題に対し代表的な意見を列記する。
(1)《百済本記》の史料価値 (a)《日本書紀》編者により,大和朝廷の国内統一の過程を,加羅地方に仮託したとする偽書説。(b)660-663年に亡命してきた百済貴族が,大和朝廷での政治的地位を要請するために編纂した歴史書とする説。(c)597年に百済王子阿佐が来朝したとき,大和朝廷との国交再開を要請するため,百済王朝からもたらされた歴史書とする説。
(2)大和朝廷と加羅諸国・百済との関係 (a)大和朝廷の南朝鮮支配は4世紀中ごろから6世紀中ごろまで,約250年間つづいたとする説。(b)大和朝廷ないしは日本列島内の倭国(倭)が,5世紀後半に加羅諸国を一括して,直接支配したとする説。(c)4世紀後半に百済と加羅諸国が,6世紀初頭に百済・加羅諸国と大和朝廷が,それぞれ国交を開いた。百済が大和朝廷と国交を開いた目的は,国際関係の強化と軍事力の援助にあったとする説。
(3)任那日本府の名称と実態 (a)正式な名称を任那日本府とし,伝承記事の朝鮮出兵・遣使などを含め大和朝廷の朝鮮経営がすべてここを基地としたとする説。(b)任那日本府は仮称で,原名は任那倭府であるとし,その実態は大和朝廷が百済王を仲介にして,加羅諸国を間接的に支配したとする説。(c)原名は倭府で,倭を加羅諸国の別名とみ,実態は百済の支配下に入った加羅諸国内の反百済自立派の亡命者集団であるとする説。
(4)任那の調 600-645年に,任那の調を新羅が5回,百済が1回納めている。(a)これを大和朝廷が加羅諸国を支配していた証拠とする説。(b)百済・高句麗の滅亡後,新羅が百済の使者を4度,高句麗の使者を8度派遣したのと同様,新羅の外交政策とする説。
以上の諸説のうち比較的穏当な説とみられるものは,(1)(c),(2)(c),(3)(c),(4)(b)であろう。今後の研究では,まず《日本書紀》の任那日本府像を明確にしたうえ,その歴史像をもとに加羅史を中心とする朝鮮古代史や日本古代史の他の事象の歴史像との関係を追究し,史実解明への緒を求め,最後にその成果にもとづいて,日本・朝鮮の関係史のみならず,両国古代史を抜本的に再検討することが必要であろう。
→加羅
執筆者:井上 秀雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報