日本歴史地名大系 「伊勢屋町」の解説 伊勢屋町いせやまち 佐賀県:佐賀市佐賀城下伊勢屋町[現在地名]佐賀市伊勢町(いせまち)長崎街道を中(なか)町・多布施(たふせ)町と西へ進み、多布施町から左折して南に進んで善左衛門(ぜんざえもん)橋を渡り、右折すると正面に伊勢太神宮がみえる。この伊勢太神宮の門前に東西に延びるのが伊勢屋町である。嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば実竈数七一、人口は男一六七人、女一六一人、計三二八人。職業としては米屋が五竈あるのが目立つ。身分別では町人二六竈、足軽二五竈などである。 伊勢屋町いせやちよう 京都市:上京区春日学区伊勢屋町上京区河原町通丸太町下ル町の西寄りを南北に河原町(かわらまち)通が通り、北側は丸太町(まるたまち)通。寛永一八年(一六四一)以前の平安城町並図に「いせや丁」とみえる。寛文五年(一六六五)刊「京雀」なども同じだが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は北と南の二組に分け、文政三年(一八二〇)の上京軒役付帳も北と南に分ける。しかしこの時は軒役を南北で一緒に負担しており、実質的には一町に復していたものと思われる。 伊勢屋町いせやまち 滋賀県:大津市中部地域膳所城下伊勢屋町[現在地名]大津市中庄(なかしよう)一丁目下浜田(しもはまだ)町から東海道が直角に東へ折れた東西の町並。中ノ庄村域に町割が行われた片側町。所伝では慶安四年(一六五一)本多俊次が伊勢亀山からの移封の際移ってきた伊勢商人の居住地という。元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)に町名がみえ、東海道筋の町並は一一四間余、家数三四。 伊勢屋町いせやちよう 京都市:中京区生祥学区伊勢屋町中京区御幸町通六角下ル南北に通る御幸町(ごこまち)通を挟む両側町。町の南側は、蛸薬師(たこやくし)通。平安京の条坊では、左京四条四坊四保一五町の地。町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「いせや町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「伊勢屋町」とあり、変化はない。しかし「京町鑑」は「西側東側二丁に分る」としている。明治元年(一八六八)に合併。 伊勢屋町いせやちよう 滋賀県:大津市大津町伊勢屋町[現在地名]大津市中央(ちゆうおう)四丁目猟師(りようし)町の東に連なる中(なか)町通の両側町。寛保二年町絵図では町の西を吾妻(あづま)川が流れる。元禄八年町絵図に町名がみえ、家数一五で、町の南側中央に「町の家番屋」が置かれている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by