日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊東マンショ」の意味・わかりやすい解説
伊東マンショ
いとうまんしょ
Ito Máncio
(1569ころ―1612)
天正(てんしょう)遣欧使節の正使。日向(ひゅうが)国都於郡(とのこおり)(宮崎県西都(さいと)市大字鹿野田(かのだ))にて日向伊東氏の分家修理亮(しゅりのすけ)祐青(すけきよ)(?―1577)と「国王」義益(よします)(1546―1569)の妹の間に生まれ、大友宗麟(おおともそうりん)の遠縁にあたる。従来日本名を祐益(すけます)といわれてきたが不詳。マンショは洗礼名。1580年(天正8)臼杵(うすき)(大分県)にて受洗し、バリニャーノが同年豊後(ぶんご)(大分県)へきたとき、有馬(ありま)(長崎県)のセミナリオ(小神学校)に送られた。バリニャーノはヨーロッパへ帰るとき、少年使節団派遣を計画し、マンショを豊後「国王」の代理として他の3名の少年たちとともに選んだ。1582年2月20日、一行は長崎を出帆し、ヨーロッパ各地で大歓迎を受けながら、1585年(天正13)3月教皇グレゴリウス13世に謁見した。1590年禁教令下の日本へ戻り、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に謁見、1591年天草(熊本県)においてイエズス会に入り、1608年(慶長13)司祭に叙階された。小倉(こくら)(福岡県)へ赴任し、萩(はぎ)(山口県)、山口、飫肥(おび)(宮崎県)の布教に従事。1612年(慶長17)長崎へ戻り、同年長崎のコレジオ(大神学校)にて病死した。東西文化の架け橋ともなるべき重要な役割を負っていたが、時の流れはそれを許さなかった。
[宮崎賢太郎 2018年3月19日]
『ルイス・フロイス著、岡本良知訳註『九州三侯遣欧使節行記』(1942・東洋堂)』▽『デ・サンデ編、泉井久之助他訳『新異国叢書5 天正遣欧使節記』(1969・雄松堂書店)』▽『フーベルト・チースリク著『世界を歩いた切支丹』(1971・春秋社)』▽『松田毅一著『天正少年使節』(角川新書)』