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伊東マンショ いとうマンショ

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百科事典マイペディアの解説

伊東マンショ【いとうマンショ】

天正遣欧使節の正使の一人。大友宗麟(そうりん)の姪の子といわれ,臼杵で受洗。大友家の代表として渡欧。名は不詳。帰国後,イエズス会に入会,神学を学ぶため3年間マカオに留学,司祭となって小倉を中心に布教し,長崎で没。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

伊東マンショ

1570年ごろ、現在の宮崎県西都市に生まれた。キリシタン大名有馬晴信が島原に開いたセミナリヨ(神学校)で学び、天正遣欧少年使節の一員としてローマ法王に面会。帰国後に神父になり、キリシタン迫害が強まる中で布教を続け、1612年に長崎で死去した。

(2015-09-09 朝日新聞 朝刊 長崎全県・2地方)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊東マンショ いとう-マンショ

1570-1612 織豊-江戸時代前期のキリシタン。
元亀(げんき)元年生まれ。天正(てんしょう)8年(1580)受洗。10年大友宗麟(そうりん)の名代として天正遣欧使節の正使となり,長崎を出発。スペイン国王,ローマ教皇に謁見,18年に帰国した。のちイエズス会司祭。一説に名は祐益(すけます)。慶長17年10月21日死去。43歳。日向(ひゅうが)(宮崎県)出身。洗礼名は満所ともかく。

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世界大百科事典 第2版の解説

いとうマンショ【伊東マンショ】

1570‐1612(元亀1‐慶長17)
天正遣欧使節の一人。日向の領主伊東家の分家の出身で,修理亮祐益とされているが,疑問視する説もある。1580年臼杵で受洗し,マンショMancioの教名を受け,有馬のセミナリヨに入り,ラテン語,音楽,日本文学を学ぶ。82年2月(天正10年1月)天正遣欧使節にさいして,大友宗麟の名代として正使に選ばれ,千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルチノらとともに長崎を出発し,84年8月ポルトガルに到着した。同年11月スペインのエスコリアール王宮で,ポルトガル国王も兼任していたフェリペ2世に謁見し,ローマでは85年3月教皇グレゴリウス13世,同年4月シクストゥス5世に謁見した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

伊東マンショ
いとうまんしょ
Ito Mncio
(1569ころ―1612)

天正(てんしょう)遣欧使節の正使。日向(ひゅうが)国都於郡(とのこおり)(宮崎県西都(さいと)市大字鹿野田(かのだ))にて日向伊東氏の分家修理亮(しゅりのすけ)祐青(すけきよ)と「国王」義益(よします)の妹の間に生まれ、大友宗麟(そうりん)の遠縁にあたる。従来日本名を祐益(すけます)といわれてきたが不詳。マンショは洗礼名。1580年(天正8)臼杵(うすき)(大分県)にて受洗し、バリニャーノが同年豊後(ぶんご)(大分県)へきたとき、有馬(ありま)(長崎県)のセミナリオ(小神学校)に送られた。バリニャーノはヨーロッパへ帰るとき、少年使節団派遣を計画し、マンショを豊後「国王」の代理として他の3名の少年たちとともに選んだ。1582年2月20日、一行は長崎を出帆し、ヨーロッパ各地で大歓迎を受けながら、85年(天正13)3月教皇グレゴリウス13世に謁見した。90年禁教令下の日本へ戻り、秀吉に謁見、91年天草(熊本県)においてイエズス会に入り、1608年(慶長13)司祭に叙階された。小倉(こくら)(福岡県)へ赴任し、萩(はぎ)(山口県)、山口、飫肥(おび)(宮崎県)の布教に従事。12年(慶長17)長崎へ戻り、同年長崎のコレジオ(大神学校)にて病死した。東西文化の架け橋ともなるべき重要な役割を負っていたが、時の流れはそれを許さなかった。[宮崎賢太郎]
『ルイス・フロイス著、岡本良知訳註『九州三侯遣欧使節行記』(1942・東洋堂) ▽デ・サンデ編、泉井久之助他訳『新異国叢書5 デ・サンデ天正遣欧使節記』(1969・雄松堂書店) ▽松田毅一著『天正少年使節』(角川新書) ▽フーベルト・チースリク著『世界を歩いた切支丹』(1971・春秋社)』

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世界大百科事典内の伊東マンショの言及

【ゴア[州]】より

…42年にはフランシスコ・ザビエルも来訪し,ここから日本までの伝道に乗り出していった。天正少年遣欧使節の伊東マンショたちも,往路の83年と帰路の87年に訪れた。最盛期の16世紀末には人口20万~30万人を数え,〈黄金のゴア〉と称せられた。…

【フランス】より

…長い歴史を通じて,常に文明のありようを問うてきたのが,まさにフランス人であったからである。【二宮 宏之】
【フランスと日本】

[近世]
 フランス人と日本人の最初の出会いは1585年スペインのマドリードで伊東マンショら4人の天正遣欧使節がフランス王アンリ3世の大使に会ったときにさかのぼる。このとき,大使は日本使節をフランスに招きたいというアンリ3世の希望を伝えたが実現しなかった。…

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