伊沢蘭軒(読み)イザワランケン

デジタル大辞泉 「伊沢蘭軒」の意味・読み・例文・類語

いざわ‐らんけん〔いざは‐〕【伊沢蘭軒】

[1777~1829]江戸後期の儒学者・医者。名は信恬のぶさだ備後福山の藩医門人渋江抽斎しぶえちゅうさい森枳園もりきえんらがいる。森鴎外史伝「伊沢蘭軒」に描かれる。

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精選版 日本国語大辞典 「伊沢蘭軒」の意味・読み・例文・類語

いざわ‐らんけん【伊沢蘭軒】

  1. 江戸後期の医者、儒者。名は信恬(のぶさだ)。備後福山の藩医。森鴎外に史伝小説「伊沢蘭軒」がある。安永六~文政一二年(一七七七‐一八二九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊沢蘭軒」の意味・わかりやすい解説

伊沢蘭軒
いざわらんけん
(1777―1829)

江戸後期の医者、儒学者。備後(びんご)国(広島県)福山藩医の家に生まれ、名は信恬(のぶさだ)、字(あざな)は憺甫(たんほ)、通称辞安、蘭軒は号。文化(ぶんか)(1804~1818)の初年長崎に行き清(しん)国の医家と交わった。のち江戸に出て、医学目黒道琢(どうたく)(1724―1798)、武田叔安(しゅくあん)(1700―1774)らに、本草(ほんぞう)を太田大洲(澄元(ちょうげん))(1721―1795)らに、儒学を泉豊洲(ほうしゅう)(1758―1809)に学んだ。儒学では狩谷棭斎(かりやえきさい)と同門で、ともに書を集め書誌学をよくした。父の跡を継いで福山藩医となり、儒官も兼ねた。門人には渋江抽斎(ちゅうさい)、森枳園(きえん)(立之(たつゆき))らがいる。なお森鴎外(おうがい)の史伝小説に『伊沢蘭軒』(1916~1917)がある。

[大鳥蘭三郎]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊沢蘭軒」の解説

伊沢蘭軒 いざわ-らんけん

1777-1829 江戸時代後期の医師,儒者。
安永6年11月11日生まれ。儒学を泉豊洲,医学を目黒道琢と武田叔安,本草を太田澄玄にまなぶ。父のあとをつぎ,備後(びんご)(広島県)福山藩医となり,のち儒官をかねた。書誌学に通じ,狩谷棭斎(えきさい),頼(らい)山陽らとまじわる。文政12年3月17日死去。53歳。江戸出身。名は信恬(のぶさだ)。字(あざな)は憺甫(たんぽ)。通称は辞安。別号に葌斎など。著作に「蘭軒随筆」「葌斎詩集」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊沢蘭軒」の解説

伊沢蘭軒
いざわらんけん

1777.11.11~1829.3.17

江戸後期の医学者・儒者。名は信恬(のぶさだ),号は蘭軒など。備後国福山藩侍医伊沢長安の長男として江戸に生まれる。目黒道琢(どうたく)・武田叔安(しゅくあん)らに師事し医学を学び,また儒学・本草学も修めた。1806年(文化3),長崎に遊学し唐人医師と交わり,のち福山藩の侍医・儒官となった。門人に森立之(りっし)・渋江抽斎(ちゅうさい)らを出し,頼山陽・大田南畝(なんぽ)らと親交があった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊沢蘭軒」の意味・わかりやすい解説

伊沢蘭軒
いざわらんけん

[生]安永6(1777).11.11.
[没]文政12(1829).3.17.
江戸時代後期の医学者で考証派に属す。福山藩医。名は信恬,字は澹甫,通称が辞安。医学を目黒道琢,武田叔安に,本草を赤荻由儀,大田大州に,儒学を泉豊洲に学んだ。著書に『蘭軒遺稿』『居家随筆』『本朝医考補遺』などがある。彼の伝記として森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』がある。

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367日誕生日大事典 「伊沢蘭軒」の解説

伊沢蘭軒 (いざわらんけん)

生年月日:1777年11月11日
江戸時代後期の医師;考証家
1829年没

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