狩谷棭斎(読み)カリヤエキサイ

デジタル大辞泉 「狩谷棭斎」の意味・読み・例文・類語

かりや‐えきさい【狩谷棭斎】

[1775~1835]江戸後期の考証学者。江戸の人。本姓は高橋。名は望之。日本の古典の考証・注解や金石文の収集などに業績を残した。著「日本国現報善悪霊異記攷証」「古京遺文」「箋注倭名類聚抄せんちゅうわみょうるいじゅしょう」など。

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精選版 日本国語大辞典 「狩谷棭斎」の意味・読み・例文・類語

かりや‐えきさい【狩谷&JISEB8C;斎】

  1. 江戸後期の国学者、考証学者。江戸の人。本姓高橋。狩谷家を嗣ぐ。古書校勘鑑識にすぐれ、日本古典の精密な本文考証と注釈を行なう。主著「古京遺文」「日本国現報善悪霊異記攷証」「本朝度量権衡考」「箋註倭名類聚抄」など。安永四~天保六年(一七七五‐一八三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩谷棭斎」の意味・わかりやすい解説

狩谷棭斎
かりやえきさい
(1775―1835)

江戸後期の国学者。安永(あんえい)4年12月1日生まれ。江戸・下谷(したや)池之端仲町の本屋青裳堂(せいしょうどう)高橋高敏の子。初名真末(まさやす)。25歳、湯島津軽藩御用商人狩谷家を嗣(つ)ぎ、名を望之(もちゆき)と改め、津軽屋三右衛門を称す。棭斎は号(41歳隠居後通称とする)。別号を求古楼。20歳ごろから上代の制度の研究を志し、度量衡に関する考証『本朝度量権衡考』(成立年未詳)や、史書の記載を補う金石文を集めて考証した『古京遺文』(1818年序成立)などを著す。また、吉田篁墩(こうとん)が提唱した校勘学を継承し、清朝(しんちょう)考証学の方法を取り入れて、『日本国現報善悪霊異記考証』(1821年刊)、『和名類聚抄箋注(わみょうるいじゅしょうせんちゅう)』(『箋注倭名類聚抄』とも。1827年序成立)など、校勘(本文研究)の分野でとくに優れた業績を残す。また、屋代弘賢(やしろひろかた)らと求古楼展観(貴重書を持ち寄って調査・検討する会)を催し、書誌学の進歩に貢献したほか、書家、古銭など古器物の蒐集(しゅうしゅう)家としても知られる。天保(てんぽう)6年閏(うるう)7月4日没。61歳。墓碑は東京都豊島(としま)区巣鴨(すがも)の法福寺現存。稿本類は静嘉堂(せいかどう)文庫大東急記念文庫国立国会図書館国立公文書館などに所蔵。

[梅谷文夫]

『『狩谷棭斎全集』9冊(『日本古典全集』所収・1925~1928・同書刊行会)』『川瀬一馬著『日本書誌学之研究』(1943・講談社)』『川瀬一馬著『続日本書誌学之研究』(1980・雄松堂)』『「狩谷棭斎雑記」(『森銑三著作集7』所収・1971・中央公論社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「狩谷棭斎」の意味・わかりやすい解説

狩谷棭斎 (かりやえきさい)
生没年:1775-1835(安永4-天保6)

江戸後期の考証学者。名は望之(もちゆき),別号は求古楼,家号は実事求是書屋など。本姓高橋。青裳堂と号する江戸の書店に生まれ,縁戚の富商津軽屋三右衛門の養子となる。屋代弘賢(ひろかた)に和漢の学を受け,市野迷庵について漢学を修めた。若くして律令の研究に志し,漢・唐代の書を渉猟,よくその蘊奥(うんのう)をきわめるにいたる。晩年は浅草に移住し,松崎慊堂(こうどう),北静廬,村田了阿と親交を結び,互いにしのぎを削った。その旨とするところは漢学であるが,漢籍の学殖をもって日本の古代資料の考証に取り組み,《和名類聚抄箋註》《日本霊異記攷証》《古京遺文》《扶桑略記校譌》などを著し,注釈や本文校訂の面で顕著な足跡を印した。また唐鈔,宋刊などの善本や金石,古銭の収集家としても知られ,書誌学や制度文物の研究に優れた見地を示した。著書は,ほかに《本朝度量権衡攷》《皇国泉貨通考》《諸国採輯風土記》《説文検字篇》《上宮聖徳法王帝説証註》など多数。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩谷棭斎」の意味・わかりやすい解説

狩谷棭斎
かりやえきさい

[生]安永4 (1775).12.1. 江戸
[没]天保6 (1835).7.4.
江戸時代後期の考証学者。名は望之,字は郷雲。江戸神田,晩年は浅草に住み,通称を津軽屋三右衛門という。棭斎は号。富裕で商用のかたわら学事に身をゆだね,松崎慊堂を師として,日本古代の制度を研究するためにその根源をたずねようとした。律令の学から,『六典』『唐律』『太平御覧』『通典』などの諸書を研究して,ついに漢代にまでさかのぼり,進んで六経を修めた。古典の本文考証,注解,あるいは金石文の収集に力を注ぎ,宋元の古版本をはじめ希書や古来の貨幣その他古器物の収集に趣味があった。おもな著作に『箋註倭名類聚抄』『日本霊異記攷証』『古京遺文』『上宮聖徳法王帝説証註』『本朝度量権衡攷』など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「狩谷棭斎」の解説

狩谷棭斎
かりやえきさい

1775.12.1~1835.閏7.4

江戸後期の考証学者。名は望之(もちゆき),字は卿雲,通称三右衛門。江戸の書籍商家に生まれ,陸奥国弘前藩御用達商人狩谷保古(やすひさ)の養子となる。松崎慊堂(こうどう)・屋代弘賢(ひろかた)らに和漢の学を学んだ。豊かな経済力を背景に和漢の善本や古器物・古銭などの収集に努め,厳密な考証と書誌学的研究にすぐれた成果を残した。晩年浅草の住居を実事求是書屋(じつじきゅうぜしょおく)と称した。著書「本朝度量権衡攷」「和名類聚抄箋注」「古京遺文」「日本霊異記攷証」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩谷棭斎」の解説

狩谷棭斎 かりや-えきさい

1775-1835 江戸時代後期の考証学者。
安永4年12月1日生まれ。江戸の豪商津軽屋の養子となる。屋代弘賢(ひろかた)にまなぶ。和漢の善本を収集し,日本の古代文化の考証をすすめて「本朝度量権衡攷(こう)」や「和名類聚抄箋注(わみょうるいじゅしょうせんちゅう)」をあらわす。また漢籍古典の校定に力をそそいだ。天保(てんぽう)6年閏(うるう)7月4日死去。61歳。江戸出身。本姓は高橋。名は望之。字(あざな)は卿雲。通称は三右衛門。別号に求古楼,蟫翁。

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旺文社日本史事典 三訂版 「狩谷棭斎」の解説

狩谷棭斎
かりやえきさい

1775〜1835
江戸後期の考証学者
江戸の生まれ。25歳のとき,陸奥(青森県)津軽藩の御用商人狩谷家の養子となった。広く和漢の古典に通じ,特に音韻や律令制の研究にくわしい。唐書にも通じ,比較考証に定評があった。主著に『古京遺文』『倭名類聚抄箋註 (せんちゆう) 』『本朝度量権衡攷 (こうこう) 』など。

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367日誕生日大事典 「狩谷棭斎」の解説

狩谷棭斎 (かりやえきさい)

生年月日:1775年12月1日
江戸時代後期の国学者;書家
1835年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の狩谷棭斎の言及

【金石学】より

…金属や石など硬質の素材に刻まれた文,すなわち金石文(碑文)を考察対象とする学問。碑文学ともいう。金石文はオリエント,ギリシア・ローマ,インド,中国,朝鮮,日本など世界各地に伝存し,それぞれについて研究が進められている。
[ギリシア・ローマ]
 ギリシア・ローマの金石文は,量質ともに豊富であるうえ,テキストの収集・校訂・刊行もきわめて盛んであって,古代ギリシア・ローマ史研究のうえで重要な役割を果たしている。…

【古京遺文】より

…1818年(文政1)7月,狩谷棭斎が著した古代金石文の研究書。棭斎は,江戸時代を代表する考証学者であり,《箋注和名類聚鈔》《日本霊異記攷証》等の著作がある。…

【度量衡】より

…下って《延喜式》(927)には,度量権衡の語が見られる。近世の文献から2例だけあげれば,狩谷棭斎は《本朝度量権衡攷》(1835)を著して中国,日本の度量衡の脈絡を考証し,青山幸哉は《西洋度量考》(1855)を編述して西欧の度量衡を体系的に紹介した。 なお度量衡に対応する西欧語は,英語weights and measures,フランス語poids et mesures,ドイツ語Mass und Gewichtなどであって,質量(weights,poids,Gewicht)と長さ・体積(measures,mesures,Mass)との並列という表現になっている。…

※「狩谷棭斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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