中国,浙江省北部,紹興市の南東から南へつづく一連の山峰をいう。最高峰は南部の東白山(1195m)だが,北へゆくほど低くなり海岸平野へ埋没し島嶼状につづく。伝説によれば,禹が全国を巡視した時,最後にここに江南の諸侯を会し,功績を評価して封爵を与えたという(苗山,茅山,防山などと称される)。会稽という名はこれによる。また秦の始皇帝も禹をまつって石碑を建てたという(秦望山という別称はこれによる)。この付近は古代の越国の中心で,杭州湾から江南全体を展望しうる会稽山はその象徴であった。秦・漢を通じても江南全体は会稽郡と呼ばれた。南朝梁の時,この山の北端の峰の麓に禹廟が作られ,今も紹興市の南東にあり名勝の一つとなっている。
執筆者:秋山 元秀
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…天下が安定すると,舜帝から禅譲を受け,禹は平陽に都を定めて夏王朝を開いた。禹の伝説には,塗山で妻をめとったり,会稽山に諸侯を集めたりしたなど,長江(揚子江)下流域に結びついたものが多いが,南北朝期の江南の道教のなかにも,道教化した禹の姿を見ることができる。【小南 一郎】。…
…父允常(いんじよう)以来隣国の呉とは宿敵の関係にあった。父の死後,句践が立って呉王闔閭(こうりよ)を破ると,闔閭の遺命をうけた子の夫差は,2年後に句践を会稽山に下して父の仇に報いた(前494)。許されて帰国した句践は,范蠡(はんれい)らとともに臥薪嘗胆(がしんしようたん)して会稽山の恥を忘れることなく力を養って20年,ついに前473年に呉を討ってこれを滅ぼした。…
※「会稽山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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