大江朝綱(読み)オオエノアサツナ

デジタル大辞泉 「大江朝綱」の意味・読み・例文・類語

おおえ‐の‐あさつな〔おほえ‐〕【大江朝綱】

[886~958]平安中期の学者。音人おとんどの孫。文章博士もんじょうはかせ参議。祖父音人を江相公と称するのに対し、後江相公という。著「後江相公集」。

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精選版 日本国語大辞典 「大江朝綱」の意味・読み・例文・類語

おおえ‐の‐あさつな【大江朝綱】

  1. 平安中期の漢学者書家。音人の孫。玉淵の子。正四位下参議に至る。詩人として「屏風土代」「坤元録屏風詩」を詠作したほか、撰国史所の別当となり「新国史」の編纂に携わった。著作に「後江相公集」(佚)「作文大体」がある。後江相公(のちのごうしょうこう)と称せられる。仁和二~天徳元年(八八六‐九五七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大江朝綱」の意味・わかりやすい解説

大江朝綱
おおえのあさつな
(886―957)

平安中期の文人。音人(おとんど)の孫、玉淵(たまぶち)の子。維時(これとき)は従弟。後江相公(のちのごうしょうこう)と称された。大学寮を経て、おもに弁官を歴任、その間文章博士(もんじょうはかせ)にも任じ、参議に上る。954年(天暦8)撰(せん)国史所別当となり『新国史』の編纂(へんさん)に携わる。正四位下に至り、天徳(てんとく)元年12月28日没。10世紀前半の代表的文人で、元号の勘申(かんじん)、詔勅・上表・詩序の制作などに活躍し、学問の世界における大江氏の地位の確立に大きく寄与した。書にも優れる。著作に『後江相公集』『倭注切韻(わちゅうせついん)』があったが散逸。詩文は『扶桑(ふそう)集』『類聚(るいじゅう)句題抄』『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』その他に多く残る。『本朝文粋』『和漢朗詠集』にはそれぞれ第1位、第3位の編数の入集(にっしゅう)があり、後の時代に愛好されたことを物語る。

[後藤昭雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「大江朝綱」の意味・わかりやすい解説

大江朝綱 (おおえのあさつな)
生没年:886-957(仁和2-天徳1)

平安時代の漢詩人,書家。音人(おとんど)の孫。文章博士,参議に列し,維時(これとき)とともに文章道大江家を確立した。渤海使餞送詩序の名句〈前途程遠し〉,長男の死を悼む《亡息澄明願文》などが名高い。再度,内裏屛風詩を作り,一つは小野道風筆の屛風土代(どだい)としてのこり,一つは坤元詩録として《和漢朗詠集》にみえる。音人の江相公に対し後江相公(のちのごうしようこう)といわれ,《後江相公集》や,《新国史》の撰進もあるが,今は伝わらない。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「大江朝綱」の解説

大江朝綱

没年:天徳1.12.28(958.1.20)
生年:仁和2(886)
平安中期の学者,漢詩人。玉淵の子。江相公と号した音人の孫で,後江相公と称された。延喜11(911)年に文章生となり,次いで丹波,信濃ほかの地方官や刑部少丞,民部大丞,左少弁など太政官の下役を歴任し,承平4(934)年に文章博士を兼ねた。さらに天暦7(953)年に参議,正四位下に至った。博学多才で作詩や書をよくし,その詩文は『扶桑集』『和漢朗詠集』『本朝文粋』『本朝文集』ほかに収録される。自筆本に漢学者・紀長谷雄の漢詩文集『紀家集』(宮内庁保管)が知られ,また有名な「屏風土代」(宮内庁保管)は,朝綱の作になる詩を小野道風が下書したもの。家集『後江相公』や作詩の参考書『倭注切韻』も存したが,散逸してしまい伝わらない。

(古谷稔)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大江朝綱」の意味・わかりやすい解説

大江朝綱
おおえのあさつな

[生]仁和2(886)
[没]天徳1(957).12.28. 京都
平安時代中期の漢詩人。参議。祖父音人 (おとんど) 以来の学業を継ぎ,博学多才で詩文の誉れが高かった。当時の詔勅や辞表などはほとんど彼の手に成ったといわれ,また書道にもすぐれていた。詩は艶麗優美で後世の手本にされ,また朗詠を通して人々に親しまれた。『新国史』の編纂に加わり,『坤元 (こんげん) 録』の詩を選び,『倭注切韻』をつくっている。 (→大江氏 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大江朝綱」の解説

大江朝綱 おおえの-あさつな

886-958* 平安時代中期の公卿(くぎょう),漢詩人。
仁和(にんな)2年生まれ。大江音人(おとんど)の孫。文章(もんじょう)博士,左大弁などをへて天暦(てんりゃく)7年(953)参議にすすむ。撰国史所別当となり,「新国史」を撰進した。詩文は菅原文時と並び称され,「本朝文粋」「和漢朗詠集」などに多数おさめられている。書にもすぐれた。天徳元年12月28日死去。72歳。通称は後江相公。

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世界大百科事典(旧版)内の大江朝綱の言及

【新国史】より

…《日本三代実録》に次ぐ。936年(承平6)から969年(安和2)にかけて撰国史所が置かれ,大江朝綱らが別当として史書の編纂にあたったことが知られるが,未定稿のままに終わったとみられる。12世紀の《通憲入道蔵書目録》等に見え,宇多・醍醐天皇代40巻のものと,朱雀天皇代の記事を加えた50巻のものとがあったらしい。…

【屛風土代】より

…道風の署名はないが,奥書に藤原定信が保延6年(1140)にこの書を入手した際に記した識語がある。それによると本書は,延長6年(928)道風が勅命によって,宮中の屛風に書写したときの下書きで,大江朝綱の詩を書いたもの。この鑑定の内容は,《日本紀略》の記事とも合致し,本書は道風の真筆とされる。…

【本朝文粋】より

…兼明や順に見られる藤原氏専制下における批判は,和歌や日本語散文の世界よりも漢文学の世界に現れるのは注目すべきところである。紀長谷雄(きのはせお)《貧女吟》は深窓に養われた美女もいまや老いて病む貧しい独居生活を描写し,大江朝綱(あさつな)《男女婚姻賦》はポルノグラフィックな戯文としてともに異色の作。巻二は詔,勅書,勅答,位記,勅符,官符,太政官符,意見封事など公文書の類,実用的文例を収める。…

※「大江朝綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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