ノンフィクション作家。本名小先良三。朝鮮・咸鏡北道(ハムギョンプクド)生まれ。1941年(昭和16)、帰国。1958年(昭和33)、福岡県立八幡(やはた)中央高校卒業後、八幡製鉄所(現、日本製鉄)に入社。交替勤務のかたわら、雑誌『日曜作家』を創刊する。日本共産党に入党するが、のちに除名される。1959年、『新日本文学』に掲載された「ある動機」で作家デビュー。1963年、短篇「ジャンケンポン協定」で新日本文学賞受賞。
1964年(昭和39)、八幡製鉄所を退社。以降、文筆に専念する。1976年、前年(1975)に発表した『復讐(ふくしゅう)するは我にあり』で第74回直木賞受賞。この小説は1963年に実際に起きた連続強盗殺人事件を題材に小説化したもので、膨大な裁判記録がその基礎資料となっている。これ以降、実際の事件や犯罪と、その裁判過程に視点を置きつつ小説化していくノンフィクション・ノベルの方法をとるようになる。『ドキュメント狭山(さやま)事件』(1979)、『白昼凶刃』(1983、のちに『深川通り魔殺人事件』に改題)、『女医絞殺』(1984、のちに『千葉大女医殺人事件』に改題)、『一・二審死刑、残る疑問』(1985、のちに『別府(べっぷ)三億円保険金殺人事件』に改題)などの作品がこうした方法で書かれた。やがて猟奇的な事件、社会的に異様な事件が発生すると、新聞、週刊誌、テレビのワイドショーなどが競って佐木のコメントを報道するようになり、犯罪評論家的な仕事も多くなる。1980年代後半に埼玉で起きた連続幼女殺人事件でもそうした役割を求められ、裁判傍聴そのものをノンフィクション作品化していく傍聴記シリーズ『宮崎勤裁判』(1991~1997)や『「オウム法廷」連続傍聴記』(1996)などの仕事に発展していく。一連のオウム真理教事件を徹底的に取材した佐木は、「反国家活動と国家による取締り」という同様の構造をもった、しかし似て非なるもう一つの事件、大逆事件に関心を向け、最新資料に基づいて『小説大逆事件』(2001)を書く。同様にオウム事件とのかかわりは、オウム真理教による坂本弁護士一家殺害事件を取材した『三つの墓標』(2002)も生んだ。
その一方で資料を読みこむ力は歴史小説のジャンルでも発揮される。伊藤博文(ひろぶみ)が満州のハルビン駅で射殺された事件を、韓国側の資料と綿密な取材によって明らかにした『伊藤博文と安重根』(1992)はその最良の成果といえるだろう。
政治・経済の内幕を描く作品も手がけ、『越山(えつざん)田中角栄』(1977)、『政商小佐野賢治』(1982)などがある。1991年(平成3)『身分帳』で伊藤整(いとうせい)文学賞受賞。
映画化された作品も少なくなく、『復讐するは我にあり』(映画公開1979年)、『海燕(うみつばめ)ジョーの奇跡』(1980。映画公開1984年)『南へ走れ、海の道を!』(出版、映画公開とも1986年)がある。また自身が出演した映画に『RAMPO』(ディレクターズカット)がある。佐木の問題意識は、犯罪を単に個人の行為としてとらえるのではなく、あくまで時代や社会の矛盾の表れとしてとらえるところにある。したがって彼の「小説」で描かれているのは、個々の具体的な犯罪者もしくは容疑者というよりも、ほかならぬ読者自身がそうありえたかもしれない(むろん著者自身もその可能性をまぬがれえない)人間である。その意味で、佐木が描く犯罪は、社会へ向けた刃(やいば)である。
[永江 朗]
『『南へ走れ、海の道を!』(1986・徳間書店)』▽『『「オウム法廷」連続傍聴記』(1996・小学館)』▽『『三つの墓標』(2002・小学館)』▽『『復讐するは我にあり』『ジャンケンポン協定』(講談社文庫)』▽『『ドキュメント狭山事件』『深川通り魔殺人事件』『伊藤博文と安重根』『小説大逆事件』(文春文庫)』▽『『千葉大女医殺人事件』『別府三億円保険金殺人事件』『政商小佐野賢治』(徳間文庫)』▽『『宮崎勤裁判』上中下(朝日文芸文庫)』▽『『越山田中角栄』(現代教養文庫)』▽『『海燕ジョーの奇跡』(新潮文庫)』
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(2015-11-4)
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