四脚門をくぐった廟所中央が忠利の廟である。元和七年(一六二一)家督を継ぎ小倉藩主、寛永九年肥後五四万石の藩主となった。忠利廟の向かって右側は忠利室保寿院の廟である。保寿院は徳川秀忠の養女で、実は小笠原兵部大輔秀政の娘であり、名前は千、慶長二年(一五九七)に生れ、慶安二年(一六四九)五三歳で江戸にて逝去。忠利廟の左側が光尚の廟である。光尚は元和五年忠利の長子として誕生。初め光利、寛永一八年光貞と改名、遺領を相続し、のち光尚と改名。藩財政が悪化しつつあり、島原の乱後のキリシタン取締に意を注ぎ、その心労などが重なり、慶安二年三一歳にして江戸で没した。長子六丸(綱利)は光尚死去の時七歳で、遺領相続のため家老たちは幕府に懸命の働きかけを行った。忠利廟の後ろに鶴の碑がある。忠利の二十七回忌に建立されたもので、忠利に殉じた鶴の墓という。「拾集昔語」は鷹二羽が殉死したため、廟近くに葬ったとする。これに対し「阿部茶事談」は「鶴は御法事之節太多の人も恐れず御寺の庭に来りしと也」と記し、鶴は忠利の大法事の時に来て動哭したという。
忠利夫妻と光尚の廟後に七基の石灯籠があり、忠利・光尚の殉死者三〇名の墓碑がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…鷲の森と呼ばれていたところで,楓山とも書く。古墳という推測もあるが,江戸城構築後,1618年(元和4)に徳川家康の廟所を設置して以来,歴代将軍の廟が設けられ,御霊屋(おたまや)という。家康廟はのちに東照宮といい,毎年4月17日の忌日には将軍の参詣があり,紅葉山御社参ととなえ幕府年中行事の一つであった。…
※「御霊屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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