御霊屋(読み)オタマヤ

デジタル大辞泉 「御霊屋」の意味・読み・例文・類語

お‐たまや【御霊屋】

先祖の霊や貴人の霊を祭っておく建物霊廟れいびょうみたまや。

みたま‐や【御霊屋】

貴人の霊を祭ってある所。霊廟れいびょうおたまや。

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精選版 日本国語大辞典 「御霊屋」の意味・読み・例文・類語

お‐たまや【御霊屋】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「お」は接頭語 ) 先祖の霊や貴人の霊をまつっておく殿堂霊廟(れいびょう)。みたまや。
    1. [初出の実例]「ふるき都に残るお魂屋 くろからぬ首かきたる柘の芭蕉〉」(出典:俳諧・三日月日記(1730))

みたま‐や【御霊屋】

  1. 〘 名詞 〙 貴人の霊をまつってあるところ。廟(びょう)。霊廟。おたまや。
    1. [初出の実例]「檀場、諸堂霊廟(ミタマヤ)残りなく拝みめぐりて」(出典:読本・雨月物語(1776)仏法僧)

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日本歴史地名大系 「御霊屋」の解説

御霊屋
おたまや

妙解寺の西南の裏山に初代藩主忠利以降歴代藩主の廟が区画されて設置される。石段を登りつめた正面に、門と格子塀に囲まれて忠利・同室・二代光尚の廟があり、忠利殉死者一九名・光尚殉死者一一名の墓、および鶴の碑がある。この南に門と格子塀に囲まれて三代綱利・四代宣紀・五代宗孝・六代重賢の廟がある。西の高所には七代治年・一〇代斉護の廟があり、その東南の一段低い所に治年室と八代斉次男の墓がある。丘の東部には歴代藩主の子女の墓と歴代住職および寺僧の墓がある。

〔忠利・同室・光尚の墓〕

四脚門をくぐった廟所中央が忠利の廟である。元和七年(一六二一)家督を継ぎ小倉藩主、寛永九年肥後五四万石の藩主となった。忠利廟の向かって右側は忠利室保寿院の廟である。保寿院は徳川秀忠の養女で、実は小笠原兵部大輔秀政の娘であり、名前は千、慶長二年(一五九七)に生れ、慶安二年(一六四九)五三歳で江戸にて逝去。忠利廟の左側が光尚の廟である。光尚は元和五年忠利の長子として誕生。初め光利、寛永一八年光貞と改名、遺領を相続し、のち光尚と改名。藩財政が悪化しつつあり、島原の乱後のキリシタン取締に意を注ぎ、その心労などが重なり、慶安二年三一歳にして江戸で没した。長子六丸(綱利)は光尚死去の時七歳で、遺領相続のため家老たちは幕府に懸命の働きかけを行った。忠利廟の後ろに鶴の碑がある。忠利の二十七回忌に建立されたもので、忠利に殉じた鶴の墓という。「拾集昔語」は鷹二羽が殉死したため、廟近くに葬ったとする。これに対し「阿部茶事談」は「鶴は御法事之節太多の人も恐れず御寺の庭に来りしと也」と記し、鶴は忠利の大法事の時に来て動哭したという。

〔殉死者の墓〕

忠利夫妻と光尚の廟後に七基の石灯籠があり、忠利・光尚の殉死者三〇名の墓碑がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の御霊屋の言及

【紅葉山】より

…鷲の森と呼ばれていたところで,楓山とも書く。古墳という推測もあるが,江戸城構築後,1618年(元和4)に徳川家康の廟所を設置して以来,歴代将軍の廟が設けられ,御霊屋(おたまや)という。家康廟はのちに東照宮といい,毎年4月17日の忌日には将軍の参詣があり,紅葉山御社参ととなえ幕府年中行事の一つであった。…

※「御霊屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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