日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
佐藤尚中(さとうしょうちゅう)
さとうしょうちゅう
(1827―1882)
幕末・明治の洋方医。本名は尚中(たかなか)。下総国(しもうさのくに)(千葉県)小見川(おみがわ)の藩医山口甫僊(ほせん)の次男で、幼名は竜太郎、長じて城舜海と称す。江戸で育ち、寺門静軒(てらかどせいけん)に漢学を、安藤文沢(1807―1872)に医学を学ぶ。1842年(天保13)蘭方(らんぽう)外科医佐藤泰然(たいぜん)に入門して頭角を現し、27歳で泰然の養子となる。1860年(万延1)長崎に遊学し、オランダ軍医ポンペに学んだ。当時の日本の外科医は、解剖学的知識の不足のため、メスの扱いに躊躇(ちゅうちょ)し、不安を感じていた。そうしたなかで尚中は、動物や、ひそかに入手した人屍体(したい)を用いて手術の腕を磨き、優れた手術手技をもつに至った。ポンペは著書『日本滞在見聞記』のなかで、尚中を卓越した外科医と賞している。
長崎遊学の前年(1859)養父泰然より順天堂を引き継いだ尚中は、佐倉藩医として藩の医学所を洋式に改め、病院(佐倉養生所)を建てるなど医制の改革に腕を振るった。明治維新後、明治政府に請われて、1869年(明治2)大学大博士として大学東校を主宰し、日本医学の指針を定めた。1873年下野して、東京に私立病院順天堂を開設し、民間医療に尽力した。『斯篤魯黙児砲痍論(ストロメールほういろん)』『外科医法』『施利烏斯瘍学全書(セリウスようがくぜんしょ)』など多数の翻訳書がある。
[澤野啓一]