佐藤尚中(読み)さとうしょうちゅう

精選版 日本国語大辞典 「佐藤尚中」の意味・読み・例文・類語

さとう‐しょうちゅう【佐藤尚中】

  1. 幕末・明治初期の医学者。下総佐倉(千葉県)の人。本姓山口本名尚中(たかなか)通称舜海。蘭方医佐藤泰然師事、泰然の養子となり二代佐倉順天堂主となる。長崎ポンペに師事。明治六年(一八七三東京下谷に私立病院順天堂を設立著訳外科医方」「斯篤魯黙児(ストロメール)砲痍論」など。文政一〇~明治一五年(一八二七‐八二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐藤尚中」の意味・わかりやすい解説

佐藤尚中(さとうしょうちゅう)
さとうしょうちゅう
(1827―1882)

幕末・明治の洋方医。本名は尚中(たかなか)。下総国(しもうさのくに)(千葉県)小見川(おみがわ)の藩医山口甫僊(ほせん)の次男で、幼名は竜太郎、長じて城舜海と称す。江戸で育ち、寺門静軒(てらかどせいけん)に漢学を、安藤文沢(1807―1872)に医学を学ぶ。1842年(天保13)蘭方(らんぽう)外科医佐藤泰然(たいぜん)に入門して頭角を現し、27歳で泰然の養子となる。1860年(万延1)長崎に遊学し、オランダ軍医ポンペに学んだ。当時の日本の外科医は、解剖学的知識の不足のため、メスの扱いに躊躇(ちゅうちょ)し、不安を感じていた。そうしたなかで尚中は、動物や、ひそかに入手した人屍体(したい)を用いて手術の腕を磨き、優れた手術手技をもつに至った。ポンペは著書『日本滞在見聞記』のなかで、尚中を卓越した外科医と賞している。

 長崎遊学の前年(1859)養父泰然より順天堂を引き継いだ尚中は、佐倉藩医として藩の医学所を洋式に改め、病院(佐倉養生所)を建てるなど医制の改革に腕を振るった。明治維新後、明治政府に請われて、1869年(明治2)大学大博士として大学東校を主宰し、日本医学の指針を定めた。1873年下野して、東京に私立病院順天堂を開設し、民間医療に尽力した。『斯篤魯黙児砲痍論(ストロメールほういろん)』『外科医法』『施利烏斯瘍学全書(セリウスようがくぜんしょ)』など多数翻訳書がある。

[澤野啓一]



佐藤尚中(さとうたかなか)
さとうたかなか

佐藤尚中

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改訂新版 世界大百科事典 「佐藤尚中」の意味・わかりやすい解説

佐藤尚中 (さとうしょうちゅう)
生没年:1827-82(文政10-明治15)

幕末・明治初期の医師・外科医,東京の順天堂の創始者。下総で出生,本姓は山口,舜海(しゆんかい)と称し,笠翁(りゆうおう)と号した。江戸では寺門静軒,安藤文沢に学び,さらに1842年(天保13)佐藤泰然の門に入る。翌年泰然が佐倉に移るに際し,それに従い,のち59年(安政6)その養子となった。60年(万延1)長崎でポンペに学び,62年(文久2)佐倉に帰って済衆精舎を設け,西洋医学による医学教育と診療にあたった。ことに外科に優れていた。66年(慶応2)佐倉藩の医制の改革を行い,69年(明治2)東京に出て大学東校の主宰者となり,大博士,のちには大学大丞と医界最高の地位に就いた。海軍病院にも出仕したが,72年には下谷練塀町に順天堂を開き,75年これを湯島に移した。これが現在の順天堂大学に続いている。訳著書は多いが,ストロマイエルStromeyerの外科学を日本に紹介した《斯篤魯黙児(ストロメル)砲痍論》があり,ほかに著書《外科医法》《済衆録》などがある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「佐藤尚中」の解説

佐藤尚中

没年:明治15.7.23(1882)
生年:文政10.4.4(1827.4.29)
幕末明治期の医者。順天堂(順天堂大学)の2代目堂主。名は正式には「たかなか」と読む。下総国(千葉県)小見川藩医山口甫僊の次男。16歳で江戸に出て儒学を寺門静軒に学び,医学は安藤文沢に入門したが,安藤の勧めで佐藤泰然の門に転じた。たちまち頭角を現して安政6(1859)年に泰然の養嫡子になり,佐倉藩医に任ぜられた。泰然の実子松本良順(順)からポンペの情報を得て万延1(1860)年に長崎に遊学。ポンペに学んで,文久2(1862)年に帰藩。直ちに佐倉藩の医学改革を行い,佐倉仮養生所を開設した。しかし明治2(1869)年,業半ばにして政府から医学教育の改革のため大学東校の大学大博士になることを要請されて上京。同時に大典医(のちに職制の変更で小典医)に任ぜられたが,ミュラーらドイツ人教師の来日により同5年に有志を連れて辞職,私立病院博愛舎を日本橋に開設した。翌6年,いっさいの官職を辞して東京順天堂を下谷練塀町に開設。8年に湯島(順天堂大学病院の所在地)に移転して,私立総合病院の嚆矢となった順天堂医院を竣工。しかし開院直後に病に倒れて,ドイツ留学中の養子佐藤進を呼び返してあとを任せた。<著作>『外科医方』『ストローマイエル砲痍論』<参考文献>『順天堂史』上

(酒井シヅ)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐藤尚中」の解説

佐藤尚中
さとうしょうちゅう

1827.4.8~82.7.23

幕末~明治初期の蘭方医,東京順天堂の創始者。名は正式には「たかなか」とよむ。下総国小見川藩医山口氏の子。舜海と称し,号は笠翁。江戸で寺門静軒に書史を,安藤文沢に医術を学び,1853年(嘉永6)に佐藤泰然の養子となり,翌年佐倉藩医,59年(安政6)2代佐倉順天堂主。60年(万延元)藩命により長崎に留学,オランダ人医師ポンペについて外科を中心に学んだ。62年(文久2)佐倉に帰り,済衆精舎を開き医学教育と治療にあたるとともに,佐倉藩の医制を洋医方に改革。69年(明治2)大学東校に出仕し大学大博士・大典医・大学大丞と累進。72年退官。翌年東京下谷練塀町に順天堂を開設し,75年湯島お茶の水に移転,順天堂医院とする。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐藤尚中」の意味・わかりやすい解説

佐藤尚中
さとうしょうちゅう

[生]文政10(1827).4.8. 下総,小見川
[没]1882.7.23. 東京
蘭方医。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。本名は山口舜海。文久2 (1861) 年,長崎に行き J.L.C.ポンペに西洋医学を学ぶ。明治2 (69) 年,大学東校に出仕して大学大博士 (学長) となり,1872年まで同校を主宰。また明治天皇の侍医をつとめる。同年,日本橋に博愛社を開き,翌年,下谷練塀町に順天堂を開く。 75年にそれを御茶の水に移した。 (→順天堂大学 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐藤尚中」の解説

佐藤尚中 さとう-しょうちゅう

1827-1882 江戸後期-明治時代の医師。
文政10年4月8日生まれ。佐藤泰然にまなび,のち養子となる。長崎でポンペに師事し,帰郷後,佐倉養生所をつくる。維新後は大学東校に勤務し,明治6年東京下谷(したや)に順天堂医院を開設,8年湯島に移転した。明治15年7月23日死去。56歳。下総(しもうさ)佐倉(千葉県)出身。本姓は山口。通称は舜海。号は笠翁。名は正式には「たかなか」とよむ。

佐藤尚中 さとう-たかなか

さとう-しょうちゅう

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367日誕生日大事典 「佐藤尚中」の解説

佐藤 尚中 (さとう しょうちゅう)

生年月日:1827年4月4日
江戸時代;明治時代の医師
1882年没

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世界大百科事典(旧版)内の佐藤尚中の言及

【佐藤泰然】より

…53年(嘉永6)佐倉藩の藩医となり,医学面のほか兵制・外交問題などについても提言するなどの活躍をなした。59年(安政6)養嗣子の佐藤尚中にあとを継がせて,62年(文久2)横浜に移り,J.C.ヘボンらと交友があったが,のち東京に移って同地で死亡。子に松本良順,林董(ただす)がある。…

【順天堂】より

…泰然は,ここで諸国より西洋外科術を学ぶために集まってきた多くの医生を指導し,洋書を翻訳して教えるとともに,実地の臨床外科診療を行い手術もたびたび行って,順天堂は西洋外科の新しいメッカとなった。その養嗣子佐藤尚中が72年(明治5)に東京下谷練塀町に開設した病院も順天堂といい,3年後の75年4月に湯島に移って順天堂医院と称し現在に至っている。その間,医学校(現,順天堂大学)を開き同医院はその付属施設となった。…

【病院】より

…これが私立病院である。こうした私立病院で初期のものとして有名なのは,長崎養生所出身の幕府医官松本良順が1870年(明治3)東京に設けた蘭疇(らんちゆう)医院,ドイツ帰りの佐藤尚中が72年同じく東京に設けた博愛社医院(後,順天堂と改称)などがある。もっとも87年ころまでは私立病院よりは公立病院のほうが多い。…

※「佐藤尚中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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