新撰 芸能人物事典 明治~平成 「佐野鋤」の解説
佐野 鋤
サノ タスク
- 職業
- 作曲家 編曲家 指揮者
- 旧名・旧姓
- 田淵 鋤
- 別名
- 筆名=佐野 雅美(サノ マサミ),作詞家名=辰野 正知(タツノ マサジ),竜野 正治
- グループ名
- グループ名=サノ・アンド・ヒズ・ハーモニー・メーカーズ
- 生年月日
- 明治41年 12月29日
- 出生地
- 東京市 牛込区袋町(東京都新宿区)
- 経歴
- 4歳の時に陸軍軍人の父を失い、年の離れた長兄や姉に育てられる。大正11年小学校を卒業し、姉が勤めていた三越に商店員(小僧)として入社。12年志願して三越少年音楽隊に入ったが、間もなく起こった関東大震災のため大阪の三越少年音楽隊に移る。ここでトロンボーンからクラリネットに持ち替え、オーケストラの時はバイオリンを担当、またサックスも吹いた。15年音楽隊解散のため東京に戻り、映画館の楽士を務める傍ら、日本交響楽団(NHK交響楽団)に首席クラリネット奏者として参加。この頃、母方の実家・佐野家を継ぐ。昭和5年大阪の松竹歌劇団(OSK)、6年波多野福太郎率いるハタノ・オーケストラ、7年ダンスホール、ユニオンの楽団に在籍する一方、コロムビア・レコードやポリドール・レコードの専属オーケストラメンバーとしても活動。この間、紙恭輔指揮による「ラプソディー・イン・ブルー」日本初演でクラリネットソロを吹き、またバンド仲間だった服部良一が主宰した音楽塾・響友会に顔を出し、和声学を教わった。9年より自己のリーダーバンド、サノ・アンド・ヒズ・ハーモニー・メーカーズを主宰、バッキー白片(ギター)、原六朗(アルトサックス)らが在籍し、ユニオンを舞台に流行歌や民謡、浪曲などをジャズ風にアレンジして好評を博した。15年戦時体制によりダンスホールが閉鎖されると所帯を増やしてポリドール専属のポリドール新管弦楽団を作ったが、16年5月時勢によりまたも解散を余儀なくされた。6月ビクター専属となり、17年からは皇軍慰問芸術団のメンバーとして半年間の南方戦線慰問に出発。この時、シンガポール、ベトナムなど東南アジア諸国の民謡を採譜、帰国後の18年に行われた「南方共栄圏大音楽会」で発表したり、19年「南方歌曲集」を出版するなど南方民謡の紹介に貢献。なかでも「ブンガワン・ソロ(ソロの流れ)」は広く親しまれた。32年より佐野雅美の筆名を用い、50年よりフリー。流行歌の作曲は昭和13年頃から手がけており、戦前は灰田勝彦、大谷洌子が歌った「ジャワのマンゴ売り」(17年)、戦後は、暁テル子が歌った「東京シューシャインボーイ」(26年)が代表曲となった。初期の特撮番組「ナショナルキッド」の主題歌も書いている。アレンジャーとしては、小畑実「ロンドンの街角で」、三浦洸一「弁天小僧」、フランク永井「東京午前三時」「有楽町で逢いましょう」「街角のギター」、松尾和子「グッドナイト」、橋幸夫「大利根仁義」などのヒット曲を手がけ、中でも
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報