ある時期に庶民が愛好した歌曲。流行した時代や地域は、商品の流通機構、交通網の発達、映画、レコード、ラジオ、テレビジョンなどマスメディアの浸透状況によって異なる。なお、1910年代(大正中期)までは「流行唄」と表記されることが多く、「はやりうた」と読まれていた。「流行歌」の文字がレコードのレーベルに現れるのは1923年(大正12)、そして1930年代(昭和初期)には「りゅうこうか」という呼称が定着するが、1933年(昭和8)から「歌謡曲」ともいわれた。
奈良時代の童謡(わざうた)をはじめ、古代や中世の流行唄(はやりうた)は数多く残っているが、色里町中(いろざとまちじゅう)はやり歌として著名なものは、1650年代(明暦・万治)から流行した京都・島原の「投(なげ)ぶし」、大坂・新町の「籬(まがき)ぶし」、江戸・吉原の「つぎぶし」である。しかし広範囲に及ぶのは、1770年代(明和)の「おかげまいりの歌」や「潮来(いたこ)節」からであろう。1840年代(弘化・嘉永)の「伊予(いよ)節」「よしこの」「大津絵節」、1850年代(安政)以降の端唄(はうた)などがこれに続くが、同時期から流行し始めた「都々逸」(どどいつ)は、昭和初期まで長い生命を保った。
明治における最初の大流行歌は、『オッペケペー』である。1889年(明治22)川上音二郎が京都・新京極の高座で歌いだし、数年を経ずして全国に広まった。この曲に刺激されて生まれたのが『ヤッツケロ節』や『欽慕(きんぼ)節』で、とりわけ日清(にっしん)戦争の最中には「日清談判破裂して」がもてはやされた。こうした歌を街頭で歌ったのが壮士や書生であったから、「壮士歌」とか「書生節」とよばれたが、やがて月琴(げっきん)を用いた『法界節』や、花柳界からおこった『さのさ』『東雲(しののめ)節』が全国で愛唱される。『鉄道唱歌』『戦友』『ラッパ節』も大流行。1910年代(大正)になると、浪花節(なにわぶし)の影響を受けた『奈良丸(ならまる)くずし』『どんどん節』が、そして1914年(大正3)から『カチューシャの唄』が日本列島を風靡(ふうび)する。この歌によって、松井須磨子(まついすまこ)の人気は急上昇した。『鴨緑江(おうりょくこう)節』や『磯(いそ)節』のあと、1922年の『枯れすすき』と1924年の『籠(かご)の鳥』によって、映画が流行歌の強力な媒体となることが証明された。
映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多く製作され、『東京行進曲』や『女給の唄』が大きな話題となる。しかもこれらの歌は、電気吹き込みで音色が一段と改良されたレコードにより、家庭内に浸透した。その結果、三つの問題が派生してくる。第一は教育問題である。幼い子供たちが無意識に口ずさむため、人間形成に悪影響を与えるときめつけられ、その防止策が真剣に検討された。次に、1930年(昭和5)を境としてレコードの売上げは飛躍的に伸びだしたので、レコード・メーカーは流行歌の製作に重点を置き、音楽産業への傾斜を深めていく。そして、流行を予測し、最初から「流行歌」と銘打った曲が発売される。従来は庶民が愛好したので「流行歌」となったが、その性格は一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜好(しこう)を左右する原動力となる。その次は、著作権意識の高揚とも絡むが、作詞や作曲の専業者が現れ、歌手がスターの座につくようになり、従来にない新しい職業が誕生したことである。さま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオや新聞、雑誌も参加してくる。『島の娘』や『東京音頭(おんど)』などの芸者唄にあこがれる者が現れる反面、それを拒否する声も大きくなった。その矢先に、『忘れちゃいやヨ』が大ヒットした。軍歌やラジオ歌謡からも流行曲が現れてくる。また映画は、『愛染かつら』や『誰(たれ)か故郷を想(おも)はざる』によって、主題歌の強さを誇示した。1930年代は、日本調が一つの頂点に達したときである。
このころから外国楽曲の愛好者が増え、『ダイナ』や『雨のブルース』が歌われる。この流れは第二次世界大戦後になってますます顕著となり、ブギ、マンボ、サンバなど、さまざまなリズムの曲が生まれてくる。メロディーに終始していた日本人が、豊かな音楽性を身につけ始めた。美空ひばりから山口百恵(やまぐちももえ)や松田聖子(まつだせいこ)に至る十代歌手の出現は、その実証となろう。さらに1951年(昭和26)から始まった民間放送や、1953年に放送が開始されたテレビジョンは、流行歌の普及に拍車をかけた。1965年のグループ・サウンズの登場、1966年のフォーク・ブームなども幸いし、テープ・レコーダーの需要はうなぎ上りとなり、弱電産業は好業績を続ける。が、1973年の石油ショック以後にニューミュージックが台頭してからというもの、それまで「歌謡曲」とよばれていた流行歌に、「演歌」という名称が与えられるようになった。しかしニューミュージックも10年とは続かなかった。ピンク・レディーの驚異的な流行を最後に、日本の流行歌は1980年代には曲がり角にさしかかった。カラオケ・ブームとも相まって、レコードの生産枚数や放送の視聴率は頭打ちとなった。とくに演歌は不振で、当時のレコード売上げで100万枚を超えたのは『矢切の渡し』と『命くれない』のわずか2曲にすぎなかった。また、年末恒例のNHK「紅白歌合戦」では、1960~1970年代に80%を上回る視聴率を確保していたものが、1986年以降は50%前後と低迷している。
かつて流行歌は庶民の生活を反映し、「涙」とか「悲しい」という歌詞を多用してきたが、高度成長のころからテーマは「愛」や「恋」に変わった。そして大量生産、大量消費を繰り返しているうちに、1990年代を迎え、様相は一変する。CD(コンパクトディスク)ではミリオンセラーが続出しはじめ、流行歌は若い世代の生を謳歌(おうか)する力強い歌声になった。ニューミュージックはロックやジャズをも取り込む。若者の生活と強く結び付き、「音楽人間」とささやかれるほどである。もっとも、嗜好の多様化や、イヤホンの普及によって流行の実態は把握しにくいが、カラオケの凋落(ちょうらく)と反比例するかのように、変質した流行歌は若い世代の支持を得ていくであろう。
[倉田喜弘]
『園部三郎・矢沢保他著『日本の流行歌――その魅力と流行のしくみ』(1980・大月書店)』▽『新藤謙著『日本の流行歌手――東海林太郎からピンクレディまで』(1979・三一書房)』▽『添田知道著『流行歌明治大正史』(1982・刀水書房)』▽『『高橋磌一著作集10 流行歌でつづる日本現代史』(1985・あゆみ出版)』▽『古茂田信男他編『新版 日本流行歌史』上中下(1994~95・社会思想社)』
ある時期に,ある地域(通例は一つの国家)で,一般の民衆が集会の席や路上などでかってに歌う平易な歌謡。江戸時代には〈はやり歌〉といった。歌詞の内容は,時事の記録および批判,時代思潮や流行語を盛りこんだ情歌など。節(ふし)は,その時期,その地域の民衆に最も受け入れやすく覚えやすいもの。直接的魅力をもつため速く普及するが,歌詞は時の流れとともに古びていき,節は芸術的価値に乏しいため長く人心をつなぎ止める力がないので,永続性はもたない。流行歌をはやらせる根本的な力は,それぞれの時期における国民感情で,封建時代の落書(らくしよ)のような世相批判的なユーモア文学もあるとともに,時事や社会事件あるいは社会的流行や流行語などから受けた衝撃的な印象をうわさ話のように伝えるだけの素朴な歌詞をもつものもあり,そのほか歌詞とはとくに関係なく新奇な節や言葉をたのしむものがあって,流行歌の歌詞をすべて世相の反映であるとか,大衆の生活上の欲求の表現であるとかいえない実例が多い。
〈演歌〉という名称の,世相批判的な歌詞をもつ流行歌を作りつづけた添田啞蟬坊(そえだあぜんぼう)などはむしろ特殊な例で,多くの流行歌は単に場当りをねらったものであり,新奇さのゆえに流行し,古くなれば葬られていくという程度の,積極的に世相を批判するのではなく,消極的に世相の波にただよって大衆にとりいったものというほうが真相に近い。
流行歌の形態は伝達の方法に大きく作用される。日本でも欧米でも,近代の流行歌は大衆的で演芸場から出るのが通例で,芸人の歌を観客がおぼえてくりかえすのが流行の源となっていたから,簡単ながらも歌としてまとまった形のものが多く,日本では邦楽の端唄(はうた)に類するものが明治初期の流行歌(たとえば大津絵節,都々逸,かっぽれ,縁かいな)であった。欧米では,ピアノが多くの家庭にも普及しており,楽譜の読める者が多かったから,流行歌は楽譜の印刷が多くなるにつれて各家庭にも新曲が直接はいっていったが,日本では明治初期から急速に活版印刷が発達し,普通教育の普及とともに文字の読める階級が増加したので,その人々を相手とする〈演歌〉が明治20年ころから発展し,〈壮士〉と呼ぶ民権運動あがりの青年が街頭に立って新しい流行歌(《愉快節》《欣舞(きんぶ)節》《オッペケペ》など,おもに世相批判的な歌詞をもつもの)を歌い,その印刷本を売った。昭和初期になってレコードの普及とともに演歌は圧倒され,演歌の単純な節と長い歌詞あるいは多数の替歌に代わって,レコード向きの短い歌詞とこみ入った節回し(たとえば《君恋し》《東京行進曲》《酒は涙か溜息か》《島の娘》)が流行し,流行歌の節は新作曲であるのが原則になり,欧米の流行歌と同程度の音楽的形態をもつようになった。流行歌を普及するうえに映画の力が認められだしたのも昭和初期以来で,〈映画主題歌〉は映画とレコードと両方を通じて全国に普及し(たとえば《赤城の子守唄》《旅笠道中》《麦と兵隊》《旅の夜風(愛染かつら)》),外国映画の主題歌が日本で普及することも第2次世界大戦後に多くなった。また昭和初期に〈流行歌〉の同義語として〈歌謡曲〉という言葉が使われ始め,やがて〈流行歌〉に取って代わった。日本の各家庭の蓄音機は戦災でよほど失われたが,ラジオが戦争中いちじるしく普及したので,戦後の流行歌はおもにラジオによって運ばれ,レコードの優位をラジオが奪った。やがて,1960年代以降,テレビがその座を占めるようになっている。しかし,60年代後半から70年代にかけ,アメリカのプロテスト・ソングの影響を受けた思想的・社会批判的な曲が生まれたものの,次第に世相批判的な歌詞は姿を消して,多少の時事的ユーモアをのこすほか,流行歌は時事とは関係の乏しい現代的情歌におちいった。
→流行歌(はやりうた)
執筆者:堀内 敬三
流行歌は,マス・メディアを通じて伝播するようになってからその伝播速度が上がるとともに,流行範囲も拡大し,一つの歌が瞬時にして日本全国で歌われるほどとなった。とくにテレビ時代になってから,その伝播速度は加速度的に増し,またすたれる時期も早まり,その流行期間が短くなり年単位から3ヵ月単位,さらには週単位ともなってきている。これは,流行歌の商品性が高まるとともにその生産量も巨大化し,1980年代で年間2億枚レコードが生産され,毎年1200曲の新曲と400人の新人歌手が誕生しているという過剰生産による販路獲得競争に起因するところが大きい。またCMソングや放送番組のテーマソングは流行歌となる例が増えるとともに,はじめから流行歌となることをねらって作曲・演奏されることが多くなった。曲の種類もロックやポップスを含めてきわめて拡大した。
→歌謡曲
執筆者:繁下 和雄
日本の歌謡,歌曲の種目名。流行唄,時花歌などとも表記する。童謡(わざうた),時人の歌,巷謡などといわれるものが同義のこともある。一時期,広い地域に流行・伝播(でんぱ)する歌謡,歌曲のことをいい,原則として,成立の事情のいかんにかかわらず,その創作者はほとんど問題とされない。その伝承が組織的に体系化されるにいたったものは,不易性をもつ芸術的種目として除外される。古代の風俗(ふぞく)歌,童謡などや,中世以降の小歌から,現代の同様な性格のものまで含まれるが,この言葉の語感からすれば,主として江戸時代の大衆流行歌謡をいい,現代において洋楽の影響下に成立した流行歌曲は,流行歌(りゆうこうか),歌謡曲などと称して除外される。江戸時代初期の三味線伴奏のはやりうたとしての最古典曲として〈平九節(ひらくぶし)〉を〈本手の小うた〉,これに対して,それ以後のものを〈破歌〉といったところから,〈小うた〉〈はうた〉などの言葉が,小編のはやりうたの意で用いられるようにもなった。また,その伝播の代表者や,その類型的特徴から,特定の名称がつけられることもあり,〈何々節(ぶし)〉と〈節〉という語をつけたものもある。
その実態がある程度類推しうる江戸初期のものとしては,〈弄斎節(ろうさいぶし)〉〈細り〉〈片撥(かたばち)〉などがあり,次いで〈投節(なげぶし)〉〈ぬめり〉などがあらわれるが,それらの流行には盛衰があって,その時期によってその実態に変化がある。これら江戸初期の小編はやりうたの詩型は,7・7・7・5の音数律を基準とするものが多く,これを近世小歌調などともいう。歌舞伎芝居の踊歌がはやりうた化したものもあり,また逆に巷間のはやりうたが芝居の下座唄にとり入れられることもあった。はやりうたの詞章を集成した歌謡書の版行も盛んであったが,後には個々に瓦版として出されるものもあった。
江戸末期には,1842年(天保13)の三味線禁止令の結果,伴奏を付けない流行小編歌曲も生まれ,とくに地方の特定地域で成立したものが都会地で〈国々はやりうた〉などとして行われ,〈伊予節〉〈潮来節〉〈よしこの節〉〈大津絵節〉〈追分節〉などが盛行し,それらのうち後に三味線音楽化されたものもある。〈口説(くどき)音頭〉(口説),〈甚句(じんく)〉などの形式の地方歌謡の流行は,長編の叙事的なはやりうたをも生んだ。また,逆に都会地または特定の地域のはやりうたが他の地方に流伝して,各地に土着したものもある。これらのものは,現在では〈民謡〉という言葉で定義されるものに含まれるが,都会地成立の小編はやりうたである〈小うた〉〈はうた〉と区別して,〈俚謡〉〈俗謡〉などと称したこともあり,〈都々逸(どどいつ)〉〈とっちりとん〉など寄席の音曲として行われたものも含めて〈俗曲〉と呼ぶこともある。
なお,中国の民間音楽の伝来したもののうち,明楽ないし清楽または明清楽として伝承されたもの以外に,日本のはやりうた化したものもあり,とくに〈唐人踊〉の歌として,転訛(てんか)した日本語または日本語の替歌の詞章に変えられて流行したものもある。元禄期(1688-1704)の《かんふらん》や幕末の《かんかんのう》などが有名。それらから,〈法界節〉〈さのさ節〉などが生まれた。
一般に,はやりうたの流行・伝播に大きな役割を果たしたのは,遊里,花街などの宴席の場であったが,江戸後期にはとくに〈はうた〉のしろうとの愛好家連中が,〈何々連〉と称する組織を競って結成,それらのなかから〈うた沢〉などは家元制度による伝承芸術化するにいたった。現在では,以上の江戸時代以来の三味線伴奏のはやりうたのうち,〈はうた〉〈俗曲〉〈お座敷民謡〉などは,花街の芸妓や,芝居,寄席などの下座方などに伝えられてきたが,レコードによる普及とともに,多くのしろうとの愛好家をもち,それらの指導者の中には,〈家元〉を称するものまで生まれている。詞章面では,〈はうた〉〈うた沢〉,それに明治以降に盛行した早間(はやま)の〈小唄〉の間で共通するものもあるが,これら3者の音楽的性格や伝承の形態は異なる。
→歌謡 →歌謡曲 →流行歌(りゅうこうか)
執筆者:平野 健次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…〈歌謡〉は日本古来の歌を意味し,明治期に西欧の芸術歌曲を〈歌謡曲〉と呼んで新時代の歌を区別した。それが現在のように大衆歌曲を意味するようになったのは,昭和のはじめからで,JOAK(現在のNHK)が,それまで〈流行歌〉〈はやり歌〉と呼ばれていた大衆歌曲の放送にあたって,はやるかはやらないかわからない歌を〈はやり歌〉とするのは適当でないし,またレコード会社の宣伝にならないように考慮して,〈歌謡曲〉という名で放送したことによる。
[音楽的特徴]
楽曲構成やリズム,伴奏楽器の編成は,海外のポピュラー音楽の形式をとりながら,その旋律に日本の伝統的音感が根強く反映されている混血的性格をもつ。…
…その伝承が組織的に体系化されるにいたったものは,不易性をもつ芸術的種目として除外される。古代の風俗(ふぞく)歌,童謡などや,中世以降の小歌から,現代の同様な性格のものまで含まれるが,この言葉の語感からすれば,主として江戸時代の大衆流行歌謡をいい,現代において洋楽の影響下に成立した流行歌曲は,流行歌(りゆうこうか),歌謡曲などと称して除外される。江戸時代初期の三味線伴奏のはやりうたとしての最古典曲として〈平九節(ひらくぶし)〉を〈本手の小うた〉,これに対して,それ以後のものを〈破歌〉といったところから,〈小うた〉〈はうた〉などの言葉が,小編のはやりうたの意で用いられるようにもなった。…
※「流行歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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