供御瀬(読み)くごのせ

日本歴史地名大系 「供御瀬」の解説

供御瀬
くごのせ

黒津くろづの地先にあった瀬田せた川の浅瀬瀬田川を流れる土砂がすぐ南で合流する大戸だいど川の水流に押しとどめられ、当地点に堆積して形成された。名の由来は、近江朝時代大津から大和吉野へ逃れようとした大海人皇子対岸南郷なんごうの人々の指示でこの瀬を渡り黒津へ着いたとき皇子を哀れに思った黒津の村人が供御を献じたからとも、平安時代朝廷に氷魚などの供御を献じた田上たなかみ網代が置かれたからともいう(輿地志略)。別に「今昔物語集」巻三一にみえる鮫と鯉が争ったという心見こころみの瀬を当地とする説があり、「輿地志略」は「黒津村蛍堂より半町許、北の方より南郷へ越す瀬なり」とする。「清正集」に「明けぬとや心見までは来にけれどまだ深き夜の渡りなりけり」と詠まれる。

元暦元年(一一八四)一月源義仲を攻めるため鎌倉から西上した源範頼・義経の軍勢のうち勢多せたから京都に迫った範頼軍に対し、義仲は勢多には今井兼平を派遣、範頼の侵攻に備えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「供御瀬」の意味・わかりやすい解説

供御瀬
くごのせ

滋賀県大津市田上黒津(たなかみくろづ)町付近にあった浅瀬。天皇や将軍の食膳(しょくぜん)に供するため、黒津の浅瀬に田上の網代(あじろ)を設けて氷魚(ひうお)(アユ稚魚)をとったことからこの名が生まれたと伝えられる。また瀬田川唯一の徒渉(としょう)地で戦略的な要地でもあった。膳所(ぜぜ)藩は網代経営を表向きの理由として兵を常駐させ、瀬田橋の破壊に備えた。現在では瀬田川の浚渫(しゅんせつ)工事や南郷洗堰閘門(あらいぜきこうもん)設置で水没した。

高橋誠一

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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