信濃国分寺跡(読み)しなのこくぶんじあと

日本歴史地名大系 「信濃国分寺跡」の解説

信濃国分寺跡
しなのこくぶんじあと

[現在地名]上田市大字国分

上田盆地の中にあって、かん川が千曲川に流入する辺りの東岸幅三〇〇メートルの低位段丘上に築かれた寺院跡。同面上には国道一八号と国鉄信越線が通る。東山道は、南の一段低い段丘上を走っている。現在の国分寺は北方四〇〇メートルを隔てた中位段丘上にある。

天平一三年(七四一)聖武天皇勅願諸国に建立された国分寺のうち、信濃国分寺は、信濃国府近くに選ばれ、現在の国分寺よりやや南方一帯の地に建立されたが、この国分寺は、礎石の一部が仁王堂跡と推定され、昭和三〇年代まで史跡として残されているのみであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「信濃国分寺跡」の解説

しなのこくぶんじあと【信濃国分寺跡】


長野県上田市国分にある寺院跡。1930年(昭和5)に礎石の状態がいい中心部が史跡に指定されたが、その後の発掘調査の結果、金堂跡や講堂跡、塔跡や回廊跡などの存在が明らかになった。さらに西方に接して国分尼寺跡遺構も発掘されたため、1967年(昭和42)、指定地域が拡大された。僧の寺である国分寺跡は100間(約178m)四方の寺域のなかに、中門や金堂、講堂、回廊、塔、僧房の建物跡があり、伽藍(がらん)配置は中門・金堂・講堂が南北一直線に並んで中門と講堂を回廊でつなぎ、塔を金堂の東南に置く東大寺(国分寺)式の様式である。金堂には釈迦如来像が、塔には金光明最勝王経が祀られた。また、国分尼寺も中門や金堂、講堂、回廊、経蔵、尼坊、北門などの建物跡が発見され、1辺が約148mの築地塀で囲まれた80間四方と推定されている。1967年(昭和42)には、国分寺跡の北東側約200mの地点から国分寺瓦を焼いたとみられる窯跡(かまあと)が2基発見され、平安時代初期に国分寺補修用の瓦を焼いたものと考えられる。国分寺の近くにほぼ完全な窯跡が発見された例は全国的にも少なく、この窯跡は重要な遺構とされる。この国分寺跡と国分尼寺跡は築地塀の間が約40mときわめて近く、全国でも2つの寺が並んで発見され、史跡として本格的に整備された例は信濃国分寺跡が最初とされる。1980年(昭和55)には歴史博物館が信濃国分寺跡に建設され、出土した鐙瓦(あぶみがわら)や軒瓦(のきがわら)、円面硯(えんめんけん)、陶磁器土器などを中心に、上田地方の原始から平安時代までの考古・歴史資料を常設展示している。しなの鉄道信濃国分寺駅から徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「信濃国分寺跡」の意味・わかりやすい解説

信濃国分寺跡
しなのこくぶんじあと

長野県上田市国分にある寺院址。奈良時代の旧跡が,現国分寺の南方約 300mの字仁王堂にあり,古瓦を出土するとともに,土壇,礎石などが遺存していた。 1963,66年に発掘調査が行われ,金堂跡,講堂跡などが検出され,方約 600尺 (約 180m) の四至もほぼ明らかとなった。また,無文の鬼瓦をはじめ,古瓦類,土器,釘などが発見されている。なお,現国分寺は薬師堂 (江戸時代の建造) と三重塔 (室町時代の建造) が中心をなしており,近世以降盛大となった八日堂縁日の場として知られている。

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