光厳寺(読み)こうごんじ

日本歴史地名大系 「光厳寺」の解説

光厳寺
こうごんじ

[現在地名]富山市五番町

春日山と号し、曹洞宗。開祖は近江国新豊しんぽう(越前国慈眼寺末)の天叟祖寅(寛正五年総持寺住職、応仁元年没)。由緒書(寺蔵)では長禄二年(一四五八)増山ますやま(現砺波市)に創建されたというが疑問であり、当初から射水いずみ守山もりやま城下(現高岡市)に建立されたものと思われる。現新湊市の曹洞宗長朔ちようさく寺の「長朔寺旧記」に「富山光厳寺ハ一ノ宮村ニ有之候」とみえる。なお祖寅はすでに文安二年(一四四五)に越中瑞泉ずいせん(現富山市安養坊)も開いている。その段階を経て長禄二年に光厳寺に開山として迎えられたが、越中神保氏の子弟で光厳寺三世となる東海宗洋(周洋とも)が二世旗雲祖旭の門に入るのもその際であろう。しかし、祖旭は寛正五年(一四六四)に成田顕泰の招きにより同氏の菩提寺である武蔵国龍淵りゆうえん(現埼玉県熊谷市)の再興に赴き、東海宗洋もそれに同行したため、光厳寺はしばらく無住となっていた。文明六年(一四七四)に祖旭が檀越の求めにより光厳寺に戻り、再興にあたると、その間宗洋は龍淵寺鑑寺を勤めたが、同一一年五月には宗洋が光厳寺三世となる(「龍淵寺年代記」東京大学史料編纂所蔵影写本)。宗洋の兄弟弟子惟通桂儒は雲竜うんりゆう(現石川県金沢市東兼六町)に入るが、五位ごい(現福岡町)一帯には光厳寺の門末が広く形成されていたようである。なお山号春日山は守山期以前からのもので(光厳東海和尚録)春日信仰にちなむとみられる。


光厳寺
こうごんじ

[現在地名]美里町白石

天神てんじん川に向けて北傾する丘陵の谷間に位置する。威音山と号し、曹洞宗。本尊聖観音。「風土記稿」によると、榛沢はんざわ末野すえの(現寄居町)少林しようりん寺末、もとは臨済宗で、開山は応永一五年(一四〇八)没の円融禅師峻翁令山という。戦国期に鉢形はちがた(現同上)城主北条氏邦の家臣である猪俣邦憲が亡父菩提寺として中興開基し、曹洞宗に改宗。このとき邦憲が父の法名の二字をとって光厳寺と号している。天正一二年(一五八四)一二月七日に「亡父耶光山宗厳御化導」のため当寺におし白石しろいし村の百姓地手元分を寄進した猪俣邦憲判物を所蔵


光厳寺
こうごんじ

[現在地名]黒羽町寺宿

前松葉まえまつば川北岸丘陵部にある。正覚山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は聖観音。開基年代は不詳。寺伝によれば、平安末期那須与一宗隆により唐より入朝の一円を迎えて高館たかたて城南方長谷田はせだに建立され、正覚山実相院と号した。関東有数の禅刹として栄えたがのち衰微し、康元二年(一二五七)那須資村により現在地に再建され、寺号を光厳寺と改めた。なお資村は隠居後光厳寺殿と称されたという。近世初頭黒羽藩主大関高増に崇敬され、京都妙心寺の大虫を請じて再興された。慶長三年(一五九八)高増は没し、その遺骸は当寺の大虫の墓の傍らに埋葬された(「大関家系図」黒羽町蔵など)


光厳寺
こうごんじ

[現在地名]あきる野市戸倉

しろ山にある古刹。臨済宗建長寺派。山号は鷲峰山、本尊は釈迦如来。開基を足利尊氏、開山を正宗広智禅師(古先印元)として、建武元年(一三三四)に創建されたといわれ、当地方の禅宗寺院としては最も古い。一説では宝亀元年(七七〇)良弁の草創で、慶雲けいうん寺と号する天台系寺院であったという。広智は入宋して禅学を修め、帰国後鎌倉円覚寺・建長寺に住し、応安七年(一三七四)一月二四日に没した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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