光源寺(読み)こうげんじ

日本歴史地名大系 「光源寺」の解説

光源寺
こうげんじ

[現在地名]川辺町和佐

日高ひだか川左岸、小高い地にある。鶴棲山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。享保一〇年(一七二五)の江川組寺方書上(日高郡誌)に、文明年中(一四六九―八七)開基とみえる。手取てどり(現川辺町)城主玉置氏の保護を受けたが、落城後当寺も退転したらしい。正保四年(一六四七)玉置氏の遺臣木坊子太夫の末流宗顕が中興、同年一二月本願寺より木仏本尊を下付され、光源寺の寺号を許されたという。ただし御末派記(鷺森別院蔵)によると、当寺は興正こうしよう(現京都市下京区)性応しようおう(現和歌山市)末であり、性応寺の取次により興正寺の下で真宗に帰依したものと考えられる。


光源寺
こうげんじ

[現在地名]姫路市十二所前町

昭和三〇年(一九五五)白銀しろがね町から当地に移転した。浄土真宗本願寺派、遍照山と号し、本尊は阿弥陀如来。播磨六坊の一つ(「播州六坊之記録」光善寺蔵)。寺蔵の開基仏裏書(蓮如裏書集)に「方便法身尊形 播州錺東志賀間津郷 願主釈浄覚」「延徳三年辛亥二月廿八日釈蓮如(花押)」とある。これより開創・開基仏は明らかであるが、播州六坊之記録は延徳三年(一四九一)二月二八日に蓮如から本尊裏書ならびに脇掛正信偈の二幅を下付(計三幅対)されたという。


光源寺
こうげんじ

[現在地名]長崎市伊良林一丁目

中島なかしま川左岸にある。巍巍山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寛永八年(一六三一)筑後柳川瀬高やながわせたか(現福岡県柳川市)の光源寺住持の松吟が開基となって創建したと伝えるが(長崎志・長崎記)、同年は松吟が浄土真宗の本格的な布教を始めた年ともいう(長崎市史)。キリスト教弾圧の一方で仏寺の再興が図られるなか、当寺も長崎市中銀屋ぎんや町に寺地を与えられ、光源寺を公称するようになった。松吟は南蛮流の天文学に通じ、「光源寺天文書」を著した。慶安四年(一六五一)類焼(延宝四年とも)、現在地に移転。


光源寺
こうげんじ

[現在地名]上越市国府一丁目

愛宕神社の北東にある。山号上野山、本尊阿弥陀如来、真宗大谷派。建暦元年(一二一一)親鸞の弟子覚円坊最信によって開かれたと伝える。最信は木曾義仲の家臣で、俗名を堀徳兵衛光政と称したという。天正三年(一五七五)浄亮の時虫生むしうに移り、寺号を光源寺とした。宝永四年(一七〇七)恵雲の時現在地に戻る(中頸城郡誌)。「大谷遺蹟録」は「国府光源寺東派御坊」として「光源寺は聖人左遷の御配所也、聖人御自筆真影(中略)を安置す、真如上人の御書一通」と記す。江戸時代には高田本誓ほんせい寺末。境内村上義清の墓、画家東洋越陳人の墓などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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