デジタル大辞泉
「入野義朗」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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入野 義朗
イリノ ヨシロウ
昭和期の作曲家 桐朋学園大学教授。
- 生年
- 大正10(1921)年11月13日
- 没年
- 昭和55(1980)年6月23日
- 出生地
- ソ連・ウラジオストク
- 学歴〔年〕
- 東京大学経済学部経済学科〔昭和18年〕卒業
- 主な受賞名〔年〕
- 日本音楽家連盟賞〔昭和21年〕「弦楽四重奏曲」,毎日音楽賞〔昭和24年 25年 29年〕,尾高賞(第6回 8回)〔昭和32年 34年〕,ザルツブルク・オペラ賞〔昭和37年〕「綾の鼓」
- 経歴
- 在学中、諸井三郎に作曲を師事。銀行に一時勤めたあと作曲家に転向。昭和21年「弦楽四重奏曲」でデビュー。同年、柴田南雄らと「新生会」を結成。26年「7楽器のための室内協奏曲」で日本に初めて十二音技法による作曲を行なった。24年、25年、29年と毎日音楽賞、32、34年の2度にわたって尾高賞を受賞。37年にはテレビ用オペラ「綾の鼓」でザルツブルク・オペラ賞を受けた。ほかの代表作品に「合奏協奏曲」「シンフォニア」「交響曲第2番」などがある。桐朋学園大教授のほか、日本作曲家協議会委員長、日本現代音楽協会委員長などの指導的立場でも才腕をふるった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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入野義朗
いりのよしろう
(1921―1980)
作曲家。ウラジオストク生まれ。1943年(昭和18)東京大学経済学部卒業。大学時代に1年半諸井(もろい)三郎に師事したほかは、ほとんど独学で作曲を学ぶ。50年(昭和25)ごろから十二音音楽に関心を抱き、51年日本初の十二音技法の作品『七つの楽器のための室内協奏曲』を発表。その後も音列技法を用いた作品を書き続けると同時に、その理論や作品の紹介にも努めた。晩年は日本や東洋の音楽に興味をもち、「世界音楽」とか「汎(はん)音楽」の思想による作品を発表した。著書に『十二音の音楽』(1953)、主要作品に『ヴァイオリンとピアノのための二重協奏曲』(1955)、『綾(あや)の鼓(つづみ)』(1962)、オーケストラのための『ヴァンドルンゲン』(1973)、『評弾』(1977)ほかがある。
[船山 隆]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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入野 義朗
ソ連ウラジオストク生まれ。1943年東京帝国大学(現東大)経済学部卒。在学中より諸井三郎に作曲を師事。東京銀行勤務や海軍主計を経て、戦後作曲家として独立。46年に柴田南雄、戸田邦雄らと「新声会」を結成 ...続き
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
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入野義朗 いりの-よしろう
1921-1980 昭和時代後期の作曲家。
大正10年11月13日ソ連ウラジオストク生まれ。東京帝大在学中に諸井(もろい)三郎に師事したほかは独学。昭和51年日本初の十二音技法の作品「七つの楽器のための室内協奏曲」を発表した。36年桐朋学園大教授。昭和55年6月23日死去。58歳。作品はほかに「交響曲」,オペラ「綾の鼓」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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入野 義朗 (いりの よしろう)
生年月日:1921年11月13日
昭和時代の作曲家。桐朋学園大教授
1980年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の入野義朗の言及
【十二音音楽】より
… 十二音技法は第2次世界大戦後世界的に広まり,多くの作品を生み出したが,ブーレーズはセリーの思考を音高以外の要素(音価,音強,音色)にまで適用した[ミュジック・セリエル]に発展させた。日本では入野義朗,柴田南雄らによって導入され,入野は《7楽器のための室内協奏曲》(1951)で日本最初の十二音音楽を書いた。【佐野 光司】。…
※「入野義朗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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