デジタル大辞泉
「柴田南雄」の意味・読み・例文・類語
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柴田 南雄
シバタ ミナオ
昭和・平成期の作曲家,音楽評論家 元・東京芸術大学教授。
- 生年
- 大正5(1916)年9月29日
- 没年
- 平成8(1996)年2月2日
- 出生地
- 東京都千代田区
- 出身地
- 東京都新宿区
- 学歴〔年〕
- 東京帝国大学理学部植物科〔昭和14年〕卒,東京帝国大学文学部美学美術史学科〔昭和18年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 毎日音楽賞〔昭和24年〕,尾高賞(第22回)〔昭和48年〕,芸術祭賞優秀賞(第32回 昭52年度)「オルガンのための『律』」,サントリー音楽賞(第13回)〔昭和56年〕,紫綬褒章〔昭和57年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和63年〕,京都音楽賞(第4回)〔平成1年〕,文化功労者〔平成4年〕,有馬賞(第12回)〔平成4年〕,歴程賞(第32回)〔平成6年〕,京都音楽賞(特別賞 第11回)〔平成8年〕
- 経歴
- 昭和18年理研科学映画に入社、文化映画音楽を作曲。27年桐朋女子高校講師、お茶の水女子大学講師、34年東京芸術大学助教授、41年教授を歴任し、44年退官。その後59年〜平成2年放送大学教授を務めた。一方、諸井三郎に師事し作曲を志す。戦後入野義朗らと“新声会”を結成、歌曲集「優しき歌」などの抒情的作曲を発表。昭和32年黛敏郎らと“二十世紀音楽研究所”を結成。35年頃から12音技法による「シンフォニア」などの前衛音楽に向う。47年高橋悠治、武満徹らと“トランソニック”を結成。現代音楽の紹介、音楽史などの評論でもすぐれた業績を残す。代表曲に交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」「コンソート・オブ・オーケストラ」、合唱曲「追分節考」「宇宙について」、著書に「西洋音楽の歴史」「音楽の理解」「音楽は何を表現するか」「王様の耳」「印象派以降」「グスタフ・マーラー」「聴く歓び」「声のイメージ」、「人間について」3部作など多数。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
柴田南雄【しばたみなお】
作曲家。東京に生まれ,東大理学部植物学科に在学中から諸井三郎〔1903-1977〕らに作曲を学ぶ。1948年,初期の代表作となった歌曲集《優しき歌》を発表。海外の音楽思潮の研究に打ち込む一方,1957年入野義朗〔1921-1980〕らと〈20世紀音楽研究所〉を組織し,軽井沢での定期演奏会で内外の現代作品を紹介。ミュジック・セリエルの技法による管弦楽曲《シンフォニア》(1960年)などを書く。1970年代には民謡研究を土台に,《追分節考》(1973年),《念仏踊》(1976年)などのシアター・ピース約20作を相次いで発表し,日本の現代音楽に前例のないジャンルを開拓した。ほかに,世阿弥による混声合唱曲《花伝書》(1971年),合唱と管弦楽のための《ゆく河の流れは絶えずして》(1975年)など。東西の音楽に広く通じ,著作や放送を通じての啓蒙活動の功績も大きい。→電子音楽/ミュジック・コンクレート
→関連項目音楽祭|吉田秀和
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柴田南雄
しばたみなお
[生]1916.9.29. 東京
[没]1996.2.2. 東京
作曲家,音楽評論家。 1939年東京帝国大学植物学科,43年同大学美学美術史科卒業。幼少から母にピアノを学び,高校時代よりチェロを始める。大学入学後に本格的に作曲を学びはじめ,細川碧,諸井三郎に師事。みずからの作曲活動を3期に分けており,第1期は 41~51年の「西洋音楽史演習時代」。叙情的な作風で,歌曲集『優しき歌』 (1946~48) に代表される。第2期は 51~63年の「無調時代」で,歌曲『朝の歌』 (52) など 12音技法による作品や『記号説』 (54) などのセリー技法を用いた作品がある。 57年,入野義朗,黛敏郎,諸井誠らと「二十世紀音楽研究所」を結成。一方お茶の水女子大学,東京芸術大学などで教鞭をとる。第3期は J.ケージが日本に紹介されたのち,その理論である偶然性 (→偶然性の音楽 ) を用いて作曲した『夜に詠める歌』 (63) に始る。また,邦楽器を用いた作品を発表,日本民謡の採集・研究も行い,『追分節考』 (72) などに結実させた。そのほか,西欧現代音楽の紹介・分析などの評論活動も行なった。主著『音楽の骸骨のはなし』 (78) ,『グスタフ・マーラー』 (84) など。
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柴田南雄
しばたみなお
(1916―1996)
作曲家。東京生まれ。1939年(昭和14)東京帝国大学理学部植物学科を、43年同大学文学部美学科を卒業。在学中から作曲を諸井(もろい)三郎に師事。46年(昭和21)若手作曲家のグループ「新声会」を結成し、叙情的な声楽曲や合唱曲の作曲家として出発した。50年代からは入野義朗(いりのよしろう)とともに十二音技法による作曲活動を続けると同時に、放送や評論活動を通して、西洋の中世から現代までの音楽を紹介した。60年代以降はジョン・ケージの偶然性の音楽や日本の伝統芸能に興味をもち、演奏会場のステージから客席までの空間を利用した「シアター・ピース」を発表。また70年代以降は引用やコラージュの技法を用いた新しい作風を示した。主要作品に歌曲集『優(やさ)しき歌』(1946~48)、管弦楽曲『シンフォニア』(1960)、合唱曲『花伝書』(1971)、『追分節考』(1973)、交響曲『行く河の流れは絶えずして』(1975)など。著書に『音楽の骸骨(がいこつ)のはなし』(1978)などがある。
[船山 隆]
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柴田南雄 しばた-みなお
1916-1996 昭和後期-平成時代の作曲家。
大正5年9月29日生まれ。柴田雄次の子。諸井三郎,池内友次郎に師事。昭和27年十二音技法をとりいれた歌曲「朝の歌」を発表,32年二十世紀音楽研究所を設立,前衛音楽のリーダーとして多様な作品を作曲した。41年東京芸大教授。平成4年文化功労者。平成8年2月2日死去。79歳。東京出身。東京帝大卒。作品はほかに「コンソート・オブ・オーケストラ」「追分節考」など。
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柴田 南雄
東京生まれ。東京帝国大学理学部植物学科卒業後、同文学部美術史学科に入学。その間作曲を諸井三郎に師事する。卒業後1946年に、入野義朗らと「新声会」を結成。48年からは、井口基成らと「子供のための音楽教 ...続き
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
柴田 南雄 (しばた みなお)
生年月日:1916年9月29日
昭和時代;平成時代の作曲家;音楽評論家。東京芸術大学教授
1996年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の柴田南雄の言及
【十二音音楽】より
… 十二音技法は第2次世界大戦後世界的に広まり,多くの作品を生み出したが,ブーレーズはセリーの思考を音高以外の要素(音価,音強,音色)にまで適用した[ミュジック・セリエル]に発展させた。日本では入野義朗,柴田南雄らによって導入され,入野は《7楽器のための室内協奏曲》(1951)で日本最初の十二音音楽を書いた。【佐野 光司】。…
【ミュジック・コンクレート】より
… 日本ではシェフェールの動きとは無関係に[武満徹]が同様の音楽を発想していたが,パリ留学で実際にミュジック・コンクレートに触れた黛敏郎(1929‐97)の帰国後,本格的な作品が作曲されるようになった。日本における初期のミュジック・コンクレートとしては,黛敏郎の《XYZ》(1953),柴田南雄(1916‐96)の《立体放送のためのミュジック・コンクレート》(1955),武満徹の《ルリエフ・スタティク》(1955)などがある。[現代音楽]【武田 明倫】。…
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