全日本産業別労働組合会議(読み)ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

全日本産業別労働組合会議
ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ

略称産別会議、単に産別ともいう。第二次世界大戦後労働組合の復活の結果、1946年(昭和21)8月19日、21単産、162万9669人で結成された全国中央組織(ナショナル・センター)。占領軍・政府の弾圧と民主化同盟(民同)による分裂とで組織が縮小し、58年2月15日解散した。

[松尾 洋]

結成経過と闘争の展開

戦後いち早く各地で共産党員が労働者の組織化に着手し、神奈川県でこのような活動を通じて結成された鶴見(つるみ)造船所労働組合の呼びかけで、1945年12月神奈川県工場代表者会議が開かれ、同県労働組合協議会が結成された。これを最初として東京城南をはじめ各地域、関東各県にも労働組合協議会が結成され、これらが合流して翌46年1月関東地方労働組合協議会(関東労協)が結成され、産業別単一組合結成の方針が決められた。一方、同年2月に結成された日本新聞通信放送労働組合が、炭鉱、印刷出版、金属などの産別単一組合・同準備会および関東労協に提案して、産別会議準備会が成立した。このような経過で産別会議は結成され、共同闘争の機関としての機能を果たすことになったが、府県連単位に結成された日本労働組合総同盟(総同盟)とは組織形態が異なっている。

 産別会議は世界労働組合連盟(WFTU)の基本綱領に基づく10項目の戦闘的綱領を掲げ、政党支持の自由などを原則としたが、結成の経過からも共産党影響を免れなかった。結成直後の1946年9月には国鉄労働組合(国労)・全日本海員組合(海員)の大量人員整理反対闘争、10月には産別加盟民間単産の賃上げ要求を中心とする十月闘争、年末から翌47年にかけては越年資金、賃上げ要求などの官公庁260万組合員の二・一スト計画と、これを支援する400万人に上る全国労働組合共同闘争委員会(全闘)の組織と活動、二・一スト禁止後の全国労働組合連絡協議会(全労連)の結成などがめまぐるしく続いた。産別会議は、つねにこれらの闘争の先頭にたって活動したので、二・一スト禁止は産別会議、共産党の労組引き回しの結果だとの批判が起こり、47年4月に行われた総選挙、第1回参議院議員選挙に産別会議議長聴濤克己(きくなみかつみ)をはじめ多くの幹部が共産党または無所属で立候補したが、すべて落選した。産別会議は、個々の情勢を考慮せず共同闘争を機械的に行ったことなどを自己批判し、これを7月の臨時大会に提出したが、これは否認され、かえって労働者の必需物資確保を基本とする生活給確立と、ゼネストにかわる職場・地域における自主的な地域闘争の決行という強い方針が採用された。

[松尾 洋]

弾圧と分裂

1947年4月選挙で第一党になった日本社会党参加の三党連立による片山哲内閣芦田均(あしだひとし)内閣が続き、1800円ベース(のち2920円ベース)の業種別平均賃金の実施が強行され、全逓信(ていしん)従業員組合(全逓。現全逓信労働組合)などの地域闘争が激化し、食糧買出しのための集団欠勤と相まって職場は混乱し、48年3月には全逓が全国ストを決行しようとしてふたたび占領軍に禁止された。7月マッカーサー連合国軍最高司令官が公務員の争議権の剥奪(はくだつ)を指示する書簡を芦田首相に送り、政府は政令二〇一号を公布したので、国鉄・全逓労働者の職場離脱闘争が展開された。また、民間単産でも産別会議加盟日本映画演劇労働組合(日映演)指導の東宝争議をはじめ多くの激しい争議もあり、騒然たる情勢が続いた。産別会議は、つねにこれらの闘争の渦中で活動したが、48年2月反共・組合民主化を主張する民主化同盟が結成され、大きな困難に直面した。

 産別会議は当初民同の存廃に関与しないとの方針を決めたが、民同の運動はたちまち産別系・中立系組合に浸透し、その足元を掘り崩していき、1948年11月の産別会議第4回大会は産別民同の解散を決議したので、産別民同は全国産業別労働組合連合(新産別)の結成に乗り出した。このような分裂の動きは、WFTUの分裂と国際自由労連(ICFTU)の結成運動の反映でもあった。翌49年にはアメリカ政府の指示する経済九原則と、ドッジ・ラインの実施による超デフレ政策で、翌50年にかけて行政整理・企業整備に基づく官公庁、民間産業の大量人員整理が行われ、この過程で、産別会議を支えてきた共産党員・左派活動家が解雇された。さらに50年6月からは、朝鮮戦争を契機にレッド・パージが強行され、共産党員・同支持者は根こそぎ職場から追放された。こうして産別会議加盟の各単産の指導権は民同に移り、産別会議を脱退した単産は日本労働組合総評議会(総評)結成の主力になった。産別会議は、50年6月には8単産、32万1200人、51年12月には5単産、4万1380人、53年以降はわずか2単産、1万人前後になってしまった。

 これより先1950年4月産別会議執行委員会は、総同盟をはじめ民同派組合の脱退した全労連への発展的解消を決議したが、8月全労連が解散を命ぜられたため存続し、日本唯一のWFTU加盟組織として国際連帯運動や労働組合の統一行動などの活動を行った。55年日本共産党の第6回全国協議会(六全協)が産別会議引き回しを自己批判したこと、産別会議加盟全日本金属労働組合(全金属)と総評加盟全国金属労働組合(全国金属)とが合同を決定したことなどが重なり、58年解散した。

[松尾 洋]

『労働運動史研究会編「産別会議――その成立と運動の展開」(『労働運動史研究』第53号所収・1970・労働旬報社)』『産別会議記念会編『復刻 産別会議・全労連機関紙』(1973・労働旬報社)』『大河内一男・松尾洋著『日本労働組合物語 戦後Ⅰ・Ⅱ』(1969、73・筑摩書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

全日本産業別労働組合会議
ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ

略称,産別会議。 1946年8月に 21単産 163万名の組合員を擁して結成,58年に解散した労働組合連合体。産別会議はアメリカ産業別労働組合会議 CIOに範をとり,日本新聞通信労働組合の提唱によって組織された。運営に日本共産党の影響が強く,二・一スト指導の挫折後は,山猫ストなどを中心とする地域人民闘争方式に転換したが,産別民主化同盟を中心とする批判勢力が増大,50年の日本労働組合総評議会 (総評) 発足とともに組合員は激減した。極左冒険主義についての 55年の共産党の自己批判を受けて,58年の第8回臨時大会において正式に解散することになった。解散時の組合員数は1万名弱であった。

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旺文社日本史事典 三訂版 の解説

全日本産業別労働組合会議
ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ

第二次世界大戦後に生まれた左派の労働組合の全国組織
略称「産別会議」。日本共産党の影響下に,1946年8月,21単産160万人を産業別に整理統一して結成された。同年の十月闘争,'47年の二・一ストを指導し,戦後の労働運動の高揚期に重要な役割を果たした。占領軍の分裂政策などにより生まれた産別民主化同盟が内部から組織をつきくずし,'50年のレッドパージの影響も受けて'58年2月解散。

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

全日本産業別労働組合会議 (ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ)

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百科事典マイペディア の解説

全日本産業別労働組合会議【ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ】

産別会議

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山川 日本史小辞典 改訂新版 の解説

全日本産業別労働組合会議
ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ

産別会議(さんべつかいぎ)

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の全日本産業別労働組合会議の言及

【産別会議】より

…正称は全日本産業別労働組合会議。1946年8月,21の産業別組合を結集し,当時の組織労働者の40%以上の163万人を擁して結成された全国中央労働組織(ナショナル・センター)。…

※「全日本産業別労働組合会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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