百科事典マイペディア 「片山哲内閣」の意味・わかりやすい解説
片山哲内閣【かたやまてつないかく】
→関連項目芦田均|社会民主党|西尾末広|平野力三|連立政権
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(1947.5.24~1948.3.10 昭和22~23)
日本社会党委員長片山哲を首班とする日本社会党、民主党、国民協同党の三党連立中道内閣。1947年4月の新憲法下最初の総選挙で社会、自由、民主各党とも3分の1弱の議席を獲得したため、国民協同党を含め四党連立内閣が画策されたが、自由党が社会党左派排除を要求し入閣を拒否した結果、三党連立となった。マッカーサーは中道政権成立を支持した。片山内閣は日本国憲法施行に伴い、民法、刑法をはじめ諸法令の整備を行い、また内務省の解体、警察制度の改革、労働省の設置などの改革を進めた。しかし経済政策では新物価体系による労働者への負担増加、価格調整補給金・復興金融金庫融資による傾斜生産方式をとった。唯一の社会主義的政策としての炭鉱国家管理も民主党や石炭鉱業会などの抵抗によって大きく後退し、平野力三農相罷免問題から社会党左派が党内野党化し予算案に反対するに及び、ついに1948年2月10日総辞職に至った。
[宮﨑 章]
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
片山哲を首班とする日本国憲法下初の内閣(1947.5.24~48.3.10)。社会・民主・国民協同の3党連立内閣。社会党左派は入閣しなかった。経済安定のために,経済安定本部を中心にインフレ対策と石炭増産などにあたった。しかし,連立政権の不安定と官僚勢力の相克から成果があがらなかった。1947年(昭和22)11月に平野力三農相が罷免されてから安定を欠き,翌年2月の公務員生活補給金0.8カ月分の補正予算案を衆議院予算委員会に否決され総辞職。初の経済白書を発刊し,行政機構の民主化の一環として国家公務員法の制定,内務省の解体などを行った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…1945年8月14日のポツダム宣言受諾から,52年4月28日の対日平和条約発効までの期間は連合国(実質的にはアメリカ)によって日本の動向が決められた。この占領期の政策全般を対日占領政策,ないし占領政策というが,ここでは政策にとどまらず,世相にいたるまでこの時代の諸相を概括する。 ポツダム宣言の第7項は〈右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし〉と連合国の占領を定めており,日本占領のための連合国軍最高司令官にはアメリカのマッカーサーが任命された。…
…日本の社会主義政党。明治期のものと戦後から現在までのものの二つがある。(1)1906年(明治39)1月14日西川光二郎らが普通選挙の期成を目的に掲げて結党した日本平民党と同28日に堺利彦らが結党届を出して許された日本社会党が,2月24日合同大会を開いて正式に発足した政党。同党は規約第1条で〈本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す〉とうたい,1901年の社会民主党や平民社の議会主義的立場を継承し,結党以前から刊行されていた《光》が機関紙となった。…
※「片山哲内閣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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