八町村(読み)はつちようむら

日本歴史地名大系 「八町村」の解説

八町村
はつちようむら

[現在地名]岡崎市八帖はつちよう

おと川が矢作川に注ぎ込む合流点北岸に位置し、岡崎宿街西端松葉まつば町の西より矢作橋に至る間の東海道往還沿いの村。一帯は、矢作川と乙川の乱流によって中世の頃は、地形上しばしば変化したようであるが、八町の地は矢作川左岸台地上のかなり安定した土地であったとみられる。

諏訪すわ神社の境内に天正二年(一五七四)・慶長元年(一五九六)と刻した石灯籠があり、また現梅園うめぞの町にある誓願せいがん寺境内の諏訪社の石灯籠は、慶長年間八町村より伝馬てんま町に引越した国分氏が移したと伝えられ、これには「永禄三竜天庚申橘月菖蒲日国分八郎右衛門」と刻されている。田中吉政が天正一八年岡崎入封後、城の西の沼沢地を埋めて町・板屋いたや町をつくっているが、そのすぐ西に続く八町村はそれ以前より村落をなしていたとみられる。八町村の旧家であった石川家の古伝書(岡崎市史)によれば、代代金阿弥とよんで松平信光・親忠に仕えていたという。「三河国名勝志」に「此所に石川金阿弥と云ふ者あり、大神君に奉仕茶堂役なりしが、実は其比此辺の目附なりと、今に幸川岸と云ふ所に子孫あり。


八町村
はつちようむら

[現在地名]須坂市上八町かみはつちよう・下八町・明徳みようとく

現須坂市南部、南端みよう(妙)とく(一二九三メートル)、東南は同支脈で仙仁せに仁礼にれい栃倉とちぐらの村々、東は通路で栃倉・亀倉かめくら村、西南は明徳山支脈で綿内わたうち(現長野市若穂わかほ地区)井上いのうえ村、北は耕地境で野辺のべ村と境する。霧原きりはらの里とも称する。両支脈先端栃倉境さささきと井上境笹ヶ崎の間を東西にあい川が西流して村を崖錐地と平地に二分する。明徳山を中心とする左右支脈を含め「こまヶ岳」と称する。主要耕地は北部の鮎川沿いに水田と集落がある。


八町村
はつちようむら

[現在地名]富山市八町・八町北はつちようきた八町南はつちようみなみ八町中はつちようなか八町西はつちようにし八町東はつちようひがし

呉羽山くれはやま丘陵の北方に位置し、北西は八幡やはた村、北は布目ぬのめ村。中世は寒江さぶえ庄のうち。長禄二年(一四五八)六月日の賀茂社前禰宜祐種言上状(賀茂御祖皇大神宮諸国神戸記)に八町村および同村のうち赤塚あかつか名がみえる。八町村は下鴨社祝伊富の口入れにより畠山被官金子十郎の、赤塚名は同じく畠山被官木沢左近大夫の代官請であったが、年貢未進が続いていた。赤塚名年貢は、文安年中(一四四四―四九)に年二五貫文社納との契約を交わしていたが、木沢氏は七、八貫文しか納めず、未進分は毎年一六、七貫文になっていた。


八町村
はつちようむら

[現在地名]八千代町八町

鬼怒きぬ川旧河道が西流し、やがて東流するヘアピン状の湾曲部に形成された自然堤防上に位置。西に向かって張出した低い舌状台地の突端部の新長谷しんはせ寺の後方に民家が散在。北は旧河道(現在は水田)を隔てて瀬戸井せどい村。村域内には新長谷寺に関係する寺前てらまえ寺東てらひがし門前もんまえ寺裏てらうら、旧河道に関係する堀端ほりばた前沼まえぬま裏沼うらぬま溜井ためいうちなどの小字がある。

延宝八年(一六八〇)の常州河内郡八町村新長谷寺由来(新長谷寺文書)に「旧記云於河内郡管境内八町建新長谷寺後世称八丁村由之」とあり、結城朝光がこの地に八町の寺域を寄進し、貞永元年(一二三二)に新長谷寺を建立したことから「八町目」とよばれるようになったといわれるが、地名の起りには諸説がある。


八町村
はつちようむら

[現在地名]今治市八町

今治平野の中央、蒼社そうじや川の南岸に位置する平坦な村。北はごう村・辻堂つじどう村、南は中寺なかでら村に接する。律令時代立花たちばな郷に属したとされる。全村に条里の遺構がみられ六ヶ坪・八ッ目・堀内などの字がある。明治以降は八丁と略記されることが多い。

戦国期に郷ノ城があったと伝えるが、城跡・城主ともに不明である。「予陽河野家譜」によると享禄三年(一五三〇)八町河原で、来島くるしま城主来島通康と近見山ちかみやま城主重見通種との合戦があった。


八町村
はつちようむら

[現在地名]天明町川口かわぐち 八丁はつちよう

緑川(現浜戸川)しん(現緑川)の合流点北岸に開ける水田地帯にあり、東は方丈ほうじよう村、西は弐町にちよう村・弐拾町にじつちよう村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では、田方七六町六反八畝余・畠方一〇町八反余、分米九九九石余とある。同一二年の検地帳によると、田三二町四畝余、うち上田三一町二反八畝余、上畠四町四反四畝余、屋敷二町五反二畝余、分米四七一石四斗余で、家数四四、男六〇・女四五、牛七・馬二、上蜜柑一が記される。肥後領高人畜家数船数調(永青文庫蔵)によると漁舟九艘、水夫二一人がいる。銭塘手永に属し、宝暦一一年(一七六一)の下ケ名寄帳によると、惣畝数二四町三反七畝余、うち御蔵納は二三町一反六畝余・高四六六石五斗余で、他は永荒・御藪などである。


八町村
はちまちむら

[現在地名]金山町八町

小栗山こぐりやま村の南八町に位置し、野尻のじり川東岸に形成された河岸段丘上の街村で、村内を田島たじま(現田島町)への道が通り、また村の北八町の早坂はやさか峠を越えて太郎布たらぶ村に通じる道を分岐する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「中井八町 百八十一石七斗三升 御倉入」とあり、隣村中井なかい村とともに記載されている。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳に高一〇一石余とあり、以後高は変わらない。化政期の家数二七(新編会津風土記)。天保八年(一八三七)の公儀様御順村書上帳(中丸家文書)に漆木一千四八五本とある。同一三年の大石組人別家数増減書上帳(同文書)では家数二八、人数一四五(男七六・女六九)、男牛一五とある。


八町村
やまちむら

[現在地名]大野市八町

旅塚たびづか川扇状地西端に位置し、西は九頭竜くずりゆう川による河食崖となっている。東は伏石ぶくいし村、北は森本もりもと村。慶長三年(一五九八)七月二一日の越州大野郡之内八町村御検地帳写(大倉家文書)が残る。正保郷帳によれば田方二四七石余・畠方八九石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)木本藩領、同一二年福井藩領、正保二年(一六四五)松岡藩領、享保六年(一七二一)松岡藩主の福井藩主襲封によって再び福井藩領となる。大野郡内の福井藩領は当村と田野たの富島とびしま土打つちうち・伏石・小黒見おぐろみの六村のみであったため、明和五年(一七六八)一一月、六村は藩の御用などを相談一致して勤めることを申合せた(大倉家文書)


八町村
はつちようむら

[現在地名]豊郷町八町

石畑いしばたけ村の東にあり、北は四十九院しじゆうくいん村。天正一九年(一五九一)四月二七日の御蔵入目録(林文書)に八丁村とみえ、高一千七〇石余。慶長高辻帳に一千一三〇石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男二九〇・女三〇一、寺社方男五・女三。「木間攫」に名産として大豆があげられ、八丁大豆と称してはなはだ賞美される極品とある。明治一一年(一八七八)の八町村誌(豊郷村史)に田七九町余・畑一町余・宅地六町余、総計九〇町余。


八町村
はつちようむら

[現在地名]甲佐町白旗しらはた

北は山出やまいで村、南は古閑こが村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は甲佐手永に属した。宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数一三・男二八・女三九、駄馬六、本高二六八石六斗余、田一二町五反五畝余・畑八町二反四畝余、新地田三町七反八畝余、諸開(上畝物・定米畝物・請藪)一町四反五畝余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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