珍皇寺(読み)ちんのうじ

日本歴史地名大系 「珍皇寺」の解説

珍皇寺
ちんのうじ

[現在地名]東山区小松町

建仁けんにん寺の南東に位置する。丹塗の寺門を松原通北側に開き、本堂も南面する。正式には六道珍皇ろくどうちんのう寺と称する。山号は大椿山。臨済宗建仁寺派。本尊の木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)を「都名所図会」は伝教大師(最澄)作とする。江戸時代の地誌は「珍篁」と記すものも多い。「御堂関白記」寛弘元年(一〇〇四)三月一二日条に「防河新水落見、并見珎光寺・清水寺等修治」と記される「珎光寺」は当寺をさすと思われ、「ちんこう」が正しい呼称であったようだ。古くは「伊呂波字類抄」に「珍皇寺オタギデラ 愛宕寺」とあり、郡名を負う「愛宕寺」の呼称もあった。また門前を六道の辻と称し、当寺を六道さんとも言いならわし、「京羽二重」に「珍皇寺、洛ノ六波羅。世ニ云六道」とある。境内のたかむら堂には空海・小野篁閻魔王の三像を安置する。「都名所図会」などによれば、この三像はもとは別々の堂宇に置かれていたものであったという。また「雍州府志」に「庭石地蔵」とあり、「花洛細見図」にも境内に点在する石地蔵が描かれる。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創〕

開基大安だいあん(現奈良市)慶俊説(弘法大師「二十五箇条御遺告」、ただしこの書は平安中期以降の偽作とされる)、空海説(「叡山記録」ほか)、小野篁説(伊呂波字類抄・今昔物語集)などがあるが、長保四年(一〇〇二)二月一九日の山城国珍皇寺領坪付案(東寺百合文書)には、

<資料は省略されています>

とあり、去丙辰年すなわち承和三年(八三六)に山代淡海らによって国家鎮護所として建立されたことが知られる。また珍皇寺の所領は鳥部とりべ郷・八坂やさか郷・錦部にしごり郷の三郷に所在し、すでに京都東寺(教王護国寺)末寺であったこと、天徳四年(九六〇)二月二六日の双蔵焼亡によって本公験を焼失したため新公験の立券を得たことなどが知られる。このことは延久三年(一〇七一)一〇月八日の珍皇寺司解(同文書)に、

<資料は省略されています>

とあって確認される。「大宝以往」、「経四百余歳」は誇張とすべきであろう。

空海開基説は、承保二年(一〇七五)四月三日の珍皇寺所司大衆解案(東寺百合文書)に、「件御寺本願、尋以者、仏法流布、大師雖在多門跡、乍生身値遇出世給希也、尊彼大師本師慶俊僧都御願建立寺家矣、然而東寺者即大師御願、故相承代々長者令知行、以往不知給」とみえるが、「丙辰」を信じるならば承和三年の前年に空海は六二歳で没しており成立しない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「珍皇寺」の意味・わかりやすい解説

珍皇寺 (ちんこうじ)

京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺。山号は大椿山。創建については慶俊(きようしゆん)僧都の開基,また小野篁(たかむら)の開創,宝皇寺の後身といわれて異説に富む。だが,寺地が葬送所として有名な鳥辺(とりべ)山のふもとにあることから,中世以来,当寺は冥府とこの世の出入口に当たると信じられ,亡者の精霊迎えの信仰で栄え,〈六道(ろくどう)さん〉〈六道珍皇寺〉の名で親しまれた。今日も,お盆の前の8月8日から10日まで,あの世から亡者の精霊を迎えるための群参人でにぎわう。参詣人は境内で迎え鐘を突き,本堂で経木に戒名を書いてもらって水回向(えこう)をし,門前で買い求めた高野槙(こうやまき)に精霊を宿らしてわが家に持ちかえる。これを〈六道参り〉という。当寺の迎え鐘の音は冥府はもとより唐国までとどくと,《古事談》に語られるほど有名で,境内には昼は朝廷に,夜は閻魔(えんま)庁につとめたという平安初期の有名な官人歌人小野篁をまつる〈篁堂〉もあって,亡者の鎮魂の信仰伝承に富む寺である。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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