第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣(隈板(わいはん)内閣)の文相尾崎行雄の演説が問題化し、内閣瓦解(がかい)の発端となった事件。尾崎文相が1898年(明治31)8月21日帝国教育会での演説で、当時の金権万能主義の風潮を批判し、もし日本に共和政治が実現するとすれば三井、三菱(みつびし)が大統領候補となるであろうとの発言が問題化した。まず、宮中方面から批判の声があがり、政党内閣に批判的な枢密院、貴族院に非難の声は広がり、さらに与党憲政党内の旧自由党派の実力者星亨(ほしとおる)が駐米公使を辞任して帰国していたが、陸相桂(かつら)太郎らとひそかに連携して尾崎排除をもくろみ、新聞論調も尾崎攻撃を開始した。尾崎は10月24日天皇の信任も失い辞任を余儀なくされた。しかし、その後任をめぐって旧進歩・自由党両派の対立は深刻化し、妥協点をみいだすことができないため、大隈首相は独断で進歩派から犬養毅(いぬかいつよし)を推した。これに対し就任式当日の10月27日、内相板垣退助(たいすけ)が反対意見を上奏、翌日板垣ら自由派3大臣が辞任、さらに与党憲政党も分裂し、内閣は31日崩壊した。
[宇野俊一]
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第1次大隈内閣下の1898年(明治31)8月22日,帝国教育会の茶話会席上で尾崎行雄文相の行った拝金主義排撃演説が政治問題化した事件。日本が共和政体になるとしたら三井や三菱は大統領候補となるであろう,という部分が不敬にあたるとして「東京日日新聞」が攻撃,貴族院や旧自由党系の憲政党員らがこれに呼応して同年10月尾崎は辞任に追いこまれた。後任をめぐり大隈重信首相ら旧進歩党系と板垣退助内相ら旧自由党系とが対立,結局旧進歩党系の犬養毅(いぬかいつよし)が就任したが,両派の亀裂は一層深まり,内閣崩壊の原因となった。
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