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兵制 へいせい military system

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

兵制
へいせい
military system

一国において兵員を徴集し訓練し編制する制度をはじめ,兵備の全般に関する諸制度。狭い意味では兵役制度だけをさすこともあるが,広い意味においては軍制と同じに使われる場合もある。

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デジタル大辞泉の解説

へい‐せい【兵制】

兵備に関しての制度。

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大辞林 第三版の解説

へいせい【兵制】

軍隊の制度。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

兵制
へいせい
military system英語
Heerwesenドイツ語

兵役、兵備に関する制度。軍制とほぼ同義語であるが、本書では現代の軍事制度を「軍制」の項で、古典的、歴史的なものを「兵制」の項で扱った。なお、「軍隊」「戦争」の項もあわせて参照されたい。
 兵制は古代から現代に至るまで、それぞれの時代の社会構造、軍事科学技術および軍事目的の変化によって影響を受けている。
 以下、ヨーロッパ、中国、日本の兵制について解説する。[藤村瞬一]

ヨーロッパ


古代およびギリシア時代
オリエントを含めた古代の兵制は、ポリス(都市国家)時代のギリシアに至るまで、いくつかの共通点がある。その一つは、強力な支配権力をもつ専制君主が、同時に軍の最高指揮官であったこと。第二は、陸上の常備軍は貴族を中心とした騎兵と、徴兵または傭兵(ようへい)からなる歩兵の二兵種で構成されていたこと(このころの海軍は常備軍でなく作戦のつど準備された)。第三に、これら戦闘集団の責任者たとえばペルシアの管区太守(サトラップ)などは単なる常備軍の長でなく、地方の行財政、治安、司法の責任者を兼ねていたことである。ところでギリシアの初期ポリス時代は王政だったため、軍備の目的は王城防衛であり、兵制の中心は貴族で構成する騎兵だった。貴族は平時から馬を飼育し、戦争に際しては高価な武具一式を身に着け、馬2~4頭で牽引(けんいん)する戦車に乗り、従者の歩兵数名を率いて出陣した。王政が衰え、貴族の代表が執政官としてポリスの政治をとるようになると、軍備の目的は王城防衛から農地の防衛に重点が移った。それは、農地で産出される余剰農産物が交換商品としてポリスの富の源泉となっていたからである。これに伴い防衛面積は拡大され、ひいてはより多くの兵力を必要とした。兵役はポリスの市民による皆兵制となり、また貴族の騎兵にかわって平民の重装歩兵(ホプリテス)が軍の中心となった。重装歩兵は胸甲、臑当(すねあて)を着用、紋章入りの丸盾、突槍(つきやり)を持ち、密集隊形(ファランクス)をとって行動した。平民がこのような高価な武具を身につけるようになったのは、手工業・商業の発達で平民が財力を蓄えるに至ったからである。平民の歩兵の力が最大限に発揮されたのはペルシア戦争(前500~前480)のときで、数十万に及ぶペルシア軍を破ったのは11万のギリシア都市国家連合軍であった(ヘロドトス『歴史』)。戦争の勝利で発言力を高めた平民が政治への参加を要求し、実現した。ギリシアの古代民主政治の完成は、兵制における平民の比重増大と軌を一にしている。しかし平民の政治力増大と富裕化は、市民皆兵制に影響を与えるようになった。つまり戦争参加を嫌がる平民の数が増え、かわって金銭で応じる傭兵が増えてきた。軍の傭兵化はペロポネソス戦争(前431~前404)において最高潮となった(トゥキディデス『戦史』)。その結果、戦争目的における正当意識の希薄化と士気の低下が生じ、ギリシア・ポリス社会を衰退させた。このようなギリシアを圧倒したのは、マケドニアの王フィリッポス2世とその子アレクサンドロス大王の国民軍であった。マケドニア国民軍は初期ギリシアと同じく騎兵と重装歩兵の二兵種(両者の比率は1対5~6)からなり、軍を小単位に分割して機動性を高めていた。しかし、当初傭兵の少なかったマケドニア国民軍も、アレクサンドロス大王の東方遠征(前334~前322)のころには、戦域の拡大とともに現地人の傭兵の大量採用を余儀なくされ、大王の死後、群雄割拠し帝国は分裂した。[藤村瞬一]
ローマ時代
共和政ローマ(前6世紀~前82)初期には市民全体で兵役義務を担った。市民は財産によって5階級に分かれ、それぞれの階級の百人隊(ケントゥリア)に属した。この時代の兵制も、市民上層階級である貴族が組織する騎兵が中心で、密集隊形をとる重装歩兵は平民の役割であった。しかしギリシア・ポリス時代と同様に、ここでも平民の富裕化とともに、有産平民が自力で高価な武具を買い入れ、騎兵となって軍の中枢を形成した。その後ローマがイタリア半島から地中海へ進出し、3度にわたるポエニ戦争(前264~前146)を経て、広大な属州支配を達成すると兵制にも変化が生じた。それは、重装歩兵の主力である中小農民が、属州から流入してくる安い農産物によって生産基盤を失い、やがて没落して軍の中核たりえなくなったことである。この補充として傭兵制が採用されたが、傭兵は金銭によって帰属を決定するため、有力将軍の私兵と化し、ローマ共和政没落の一因となった。その後成立した帝政ローマ(前27)以降、兵制は大幅に改められ、志願兵による常備軍制度が採用された。常備軍は皇帝の親衛隊、主としてイタリア人からなる正規軍、属州民からなる補助軍の三つで構成された。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』によると、ポエニ戦争期のローマの1軍団(レギオ)は騎兵10小隊726名(ただし第1小隊だけが精鋭で132名編成、他の9小隊は各66名の小編成)と、重装歩兵10個大隊(コーホルス)6100名(ここでも第1大隊が精鋭で1105名、他の9大隊は各555名の編成)で構成されていた。カエサルの『ガリア戦記』によると、この軍団には1人の指揮官(インペラトール)と財務官(クェストール)がいたという。後者はおそらく補給担当の参謀だったのであろう。帝政末期のローマでは、肥大した軍が国政を左右するに至り、軍人皇帝時代(235~284)を迎え、さらに帝国の東西分裂(395)を経て西ローマ帝国は傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた(476)ことは周知のとおりである。[藤村瞬一]
中世
初期ゲルマンの兵制は、支配層の貴族と自由民による義務兵役制で、数十の部族単位で軍備を維持した。タキトゥスの『ゲルマニア』によれば主力は歩兵で、装備はローマ軍に比べて貧弱だったという。また騎兵も存在したが装備も劣っていた。それは、ローマ軍団の騎兵の乗馬が戦闘に適したアラブ系の駿馬(しゅんめ)だったのに対し、ゲルマンのそれは農耕馬で、まっすぐ進むことしか訓練されていなかった。ゲルマン人が馬を乗りこなし、騎兵の馬として役にたてるようになったのは「鐙(あぶみ)」を発明した8世紀のことであった。これによって馬を操り、戦闘に用いることができるようになったのである(ハワード『ヨーロッパ史と戦争』)。ところでゲルマンの兵制は、9世紀ころ確立された封建制の下で、騎兵中心のものに逆戻りする。まず兵制はかつての自発的な義務兵役制から、封建関係に基づく義務兵役制へ移行した。つまり、主君による庇護(ひご)のかわりに従者(家臣)が軍事奉仕を提供する、いわゆる従士制度(ゲフォルグシャフト)と、家臣が受けた封土の代償として主君に軍事奉仕を行う、いわゆる恩貸地制度(ベネフィキウム)に基づく兵制が一般化した。また兵種は騎士(騎兵)と従者(歩兵)の2種であった。1人の騎士は数名の従者を率いて主君の下に馳(は)せ参じ、他の騎士・従者といっしょになって騎士団を構成した。ゲルマン時代でも騎士になれるのは財力のある家系の青年に限られ、通常7歳になると親元を離れて修行の道に入り、21歳で騎士(ナイト、シュバリエ、リッター)の称号を受けるため、武道に限らず、あらゆる礼儀作法=騎士道を身につける努力をした(ブルフィンチ『中世騎士物語』)。しかし『ロランの歌』や『ニーベルンゲンの歌』に登場する雄々しい騎士の姿は十字軍遠征(1096~1291)を契機に姿を消した。十字軍遠征の初期はアラブ人、エジプト人が主たる相手で、中世ゲルマン騎士も優位にたてたが、12世紀中ごろから出現してきたトルコの騎馬弓兵は機動力に優れ、十字軍の騎士団はかき回され、苦戦した。また十字軍の騎士は騎士道に固執し、戦闘の効果よりも名誉を重んじたため、いたずらに命を落とすことが多かった(モリソン『十字軍の研究』)。[藤村瞬一]
近世
英仏間のいわゆる百年戦争(1338~1453)は、それが100年連続して戦われた戦争を意味するのではないにせよ、長期にわたる大規模戦争の展開は、兵士の大量消耗を招き、もはや傭兵に頼るほかなくなり、君主と騎士という封建主従関係に基づく兵制を完全に変化させた。百年戦争末期にフランスのシャルル7世(在位1422~61)が創設した有給常備軍は、兵種こそ従前どおり騎兵と歩兵からなるものであったが、金銭という新しい契約関係に基づく武力集団であり、絶対王政の基礎をなす画期的な試みであった。このタイプの職業軍人集団からなる常備軍は、その後一般化し、近世末期の王朝戦争、つまりスペイン継承戦争(1701~14)、大北方戦争(1700~21)、オーストリア継承戦争(1740~48)、七年戦争(1756~63)などの主役であった。ところで、この時代の兵制にもう一つの新しい変化があった。それは14世紀なかばに発明された黒色火薬を用いた小銃、火砲を使用する砲兵の出現である。三十年戦争(1618~48)で砲兵が活躍し、堀と城壁による防衛を過去のものとしてしまい、この戦争を機に「火薬革命」ということばが使われるようになったが、この時期から騎兵にかわって砲兵が重要視されるようになった。つまり、重い大砲や銃を操作するのは農民出身の兵士であり、これが、華やかではあるが、重装備によって戦場での動きが鈍くなる騎士の役割を減少させたのである。またもう一つ、16世紀以降の兵制上の新しい特徴として、海軍の常備軍化がある。海軍はそれ以前にも重要な戦力であり、大艦隊が編成されることがあったが、あくまで地上兵力の輸送のための一時的な措置であった。しかしレパントの海戦(1571)でトルコ艦隊に勝ったスペインが、海の常備軍としての艦隊を保有し、地中海、大西洋において無敵艦隊(インビンシブル・アルマダ)として恐れられ、かつアメリカ大陸との通商ルートの保護にあたったことは、兵制史上、画期的なことであった。この無敵艦隊も1588年にイギリス艦隊に敗れると、スペイン帝国の衰退に拍車がかかることになったが、以後フランス、オランダ、イギリスが新大陸の覇権をかけて海軍常備軍としての艦隊を保有するようになり、その優劣が植民地支配の成否を決することになった。[藤村瞬一]
近代
フランス革命とそれに続くナポレオンの時代は、まさに今日の兵制、軍制の根幹が形成された時期である。ナポレオンが用いた新しい兵制は、まず第一に、軍組織を従前のような職業軍人からなる精鋭軍(エリート軍)とせずに、一般徴兵制に基づく国民軍(大衆軍)としたことである。これによって指揮官は損失を恐れずに大量の兵力を戦場に投入し、敵を圧倒することができるようになったのである。第二は、軍編制をほぼ今日のものに近い形で整備したことである。すなわち、歩兵、騎兵おのおの8000名を定員とする師団2ないし3をもって1軍団とし、1個師団は2個旅団、1個旅団は2個連隊、1個連隊は2個大隊としたことである。今日、軍編制の基本単位である師団(ディビジョン)という名称はこのときから使用されたものである。ナポレオン以降、ヨーロッパ各国では一般義務兵役制が主流となった。このほか兵制上でいくつかの大きな進展がみられた。その一つは、指揮官を養成する士官学校がフランス、イギリス、プロイセン、ロシアなどで設立され、今日までその伝統を守っていることである。またプロイセンで初めて設置された参謀本部は、平時から軍事計画を練り、それに基づく訓練の実施という任務を課せられたものであるが、これも今日の軍隊の維持に欠かすことのできないものとなっている。[藤村瞬一]
現代
20世紀の兵制については「軍制」の項に譲るが、兵制に関連して言及しておきたいことは、義勇兵、民兵、地域防衛構想が、常備軍、正規軍とともに依然重要性をもっているということである。義勇兵としては、ロシア革命時(1917)に誕生して赤軍の基礎となった労農義勇兵、あるいはスペイン内戦(1936~39)での国際義勇兵、さらに朝鮮戦争(1950~53)における中華人民共和国の義勇軍などがあげられる。民兵はもともとアングロ・サクソン系国民の間で固有の兵制であったが、第二次世界大戦中に侵略軍に対しレジスタンスを行った中国共産党指揮下の抗日戦線勢力、旧ソ連、旧ユーゴスラビア、ギリシア、アルバニアなどのパルチザン活動で注目されるようになった。加えて今日、膨大な国防負担を回避するため、民兵制を採用しているスイスを例に、それに近い地域防衛構想が検討されている。最後に、現在の各国国防軍の陸・海・空の三軍制は1938年にナチス・ドイツで国防軍を再編した際に採用された制度で、第二次大戦後(1947)アメリカでも国防総省設置とともに実施された制度であることを付記しておく。[藤村瞬一]

中国


 M・ウェーバーは『社会と経済』のなかで、中国や中近東の官僚制的帝国と西洋(とくにローマ帝政期以前の古典古代都市共同体)の重要な相違を指摘したが、軍隊の類型に関して次の点を強調した。すなわち――東洋では将校・兵士を徴募し、武装や給養を王の倉庫から与える。軍事行政は国王が直轄的・官僚制的に管理し、一般臣民は戦争手段から分離されて軍事的に無力化・平和化されていた。これに対し西洋では、農民召集軍、騎士等の特権身分戦士、あるいは市民民兵等いずれの場合でも軍隊の基礎は従軍義務者の自立的武装自弁のうえに築かれていた――というのである。西欧中世封建社会もまさにその典型といえる。一方秦(しん)・漢以降のいわゆる帝政期中国では、西洋ならば帝政期ローマか中世末絶対王制期以後しかみられないような家産官僚制的常備軍組織が成立していた点に特徴があったといえる。そこからまた歴代王朝の兵制は平時編制統轄組織と戦時動員編制とが区別され、文官優位の統制に努力した。[菊池英夫]
氏族的国家
最古の殷(いん)・周王国は、祭祀(さいし)軍事共同体としての氏族的都市国家の連合体であった。したがってその軍事力は、王室を中心とする支配部族の青年集団(多子族、公族などと称す)を中核とし、分族や通婚、盟約・服属と種々な形で連合した諸族・諸国の軍団が加わった。有力氏族の族長が師、卿(けい)などとよばれる統率者となった。当時は馬に引かせる戦車に射手を乗せて戦う車戦中心で、武器として弓のほか、戈(ほこ)や剣が盛んに用いられたが、歩卒は補助的であった。周末春秋戦国時代から歩兵や騎馬が主となった。また武器も青銅から鉄器へと移った。各国内で氏族的秩序が崩れ、従来の血族的組織にかわって被支配集団を含めて地縁的に軍隊を組織するようになり、直接これを掌握する者が強固な王権を確立して制覇するに至った。[菊池英夫]
漢人統一帝国
こうして生まれた秦・漢の統一以後は、専制的皇帝権を中心に、直接それを支える家産的親衛軍(A)、それを全国支配と結合する中央軍・地方軍(B)、農耕漢人住域を塞外(さいがい)遊牧種族の侵攻から守る辺防軍(C)、という常備軍制の基本型ができた。それはまた、種族的共同防衛(C′)、階級的抑圧機構(B′)、支配階級中の特定集団ないし王室皇家の私的権力(A′)という三重の機能に応ずるものとなっていた。漢人の統一帝国であった漢(前2世紀~後2世紀)、隋(ずい)(7世紀)、唐(7~9世紀)、明(みん)(14~17世紀)の諸王朝は、中央・地方を結ぶ全国支配の一環として徴兵制をとり(漢の正卒(せいそつ)・更卒(こうそつ)の役、隋・唐の府兵(ふへい)、明の衛所(えいしょ)の軍戸)、一部を交替で辺境の烽候(ほうこう)(のろしの見張り)や鎮戍(ちんじゅ)・辺牆(へんしょう)といった城塞に配置するとともに、一部は首都に交替勤務させて近衛の衛士とした(漢の衛尉(えいい)が統率する南軍、隋・唐の十二衛将軍が統轄した南衙(なんが)左右六軍十二衛、明の京営の兵)。しかし帝権の維持強化のためには、ほかに特権的身分の親衛儀仗(ぎじょう)隊(漢の郎中令・光禄勲(こうろくくん)に統轄される郎衛、北朝の宗子(そうし)隊・望子(ぼうし)隊の流れをくむ唐の親(しん)・勲(くん)・翊(よく)三衛)や、世襲職業兵的な精強分子(漢では中尉・執金吾(しつきんご)の統轄する北軍諸営に、初め京師近傍の徴兵をあてたが、のちに8校尉諸屯営として世襲化、後漢(ごかん)では北軍中侯のもとに5営を置く。3~4世紀の西晋(せいしん)では三部司馬、唐の北衙(ほくが)禁軍、明の親軍衛など)を置いて中核とした。
 重税や遠征などで徴兵制が崩れる王朝末期には、近衛部隊はいずれも募兵による拡大の一途をたどり、財政負担と、軍司令官の権限強大化、クーデターや軍人の反乱によって王朝が倒される結果となった。後漢末六朝(りくちょう)(3~6世紀)においては軍事費の財源が結局土地経済を離れえず、特定家族を兵戸(軍戸・士家)として兵役を世襲化させる方向がとられ、司令官たる将軍・都督の人的紐帯(ちゅうたい)によってかろうじて中央に統制された。したがって地方軍は容易に地主武装力を基礎とした軍閥の私兵(郷宗(きょうそう)・郷里部曲(ぶきょく)と称す)と化した。唐末には発達しつつある商業資本が軍事費の財源となり、地方の要衝に大小の傭兵(ようへい)軍団が割拠し(節度使(せつどし)〈藩鎮(はんちん)〉が幕府を開いて統率)、有力なものは五代十国を形成した。最大の財政基盤を擁する中原五代王朝が最大の中央直轄軍団(天子の親衛軍が拡大されたものとして、侍衛親軍(じえいしんぐん)馬、歩軍、殿前(でんぜん)軍と称し禁軍と総称)をつくりあげ、それを各地に分駐させて全国再統一を遂げたのが宋(そう)朝(10~12世紀)である。南宋以後は水軍(海軍)の組織も発達し、武器の面でも大規模な攻城機械や火薬も登場し、やがて明代には火砲も普及し始めた。[菊池英夫]
征服王朝
一方、五胡(こ)(4世紀)、北朝(5~6世紀)、遼(りょう)(10世紀)、金(12~13世紀)、元(13~14世紀)、清(しん)(17~20世紀初め)のような異民族の征服王朝では、氏部族的団結による征服支配種族の兵をもって帝権を直接支える中央直属軍とした(北朝の羽林(うりん)・虎賁(こふん)、遼の皮室軍・宮衛軍、金の猛安(もうあん)・謀克(ぼうこく)制、元の五衛四怯薛(ケシ)および探馬赤(タマチ)軍、清の八旗軍などがその例)。また元朝モンゴル民族の支配は遊牧民族特有の百戸・千戸・万戸の十進法組織を中国軍隊に持ち込んだ。これら征服王朝は、初めは漢人を地方的郷兵として補助的に使用するにとどめたが、支配民族の漢化により部族軍制が崩れるにつれ漢人兵に頼らざるをえなくなった(元の漢人千戸所、清の緑営)。[菊池英夫]
清末以後
清末に起こった農民反乱のなかから生まれた太平天国(たいへいてんごく)は特色ある軍制を敷き、他方これを鎮圧するため清朝が組織した官設民兵の団練(だんれん)や郷勇(きょうゆう)、洋式装備の新建陸・海軍が生まれたが、封建的社会・政治組織の割拠性から近代地方軍閥を生むに至った。辛亥(しんがい)革命(1911)後も軍事的割拠状態が続き、第一次世界大戦後、中国国民党はソ連赤軍に学んで党軍としての国民革命軍を組織して北伐による全国統一を試みたが、国民政府自体が軍閥的性格を払拭(ふっしょく)することができなかった。
 反帝反封建闘争を徹底させた中国共産党が同志的規律を基礎とした工農紅軍を組織し、それが人民解放軍に成長し、ここに中国は初めて近代的・統一的国民軍をもったといえる。同時にそれは人民武装といわれる民兵制と結合した革命的軍隊であった。[菊池英夫]

日本


古代
狩猟、漁労、植物採集など自然物依存の生活の縄文時代は、物資の貯蔵・蓄積は少なく、武力で他の集落の富を奪うことは無意味であった。農業生産が主体となった弥生(やよい)時代に集落対集落の戦いを通じて社会の階級分化が進み、集落の単位を超えた地域的政治集団が形成され、集団間の戦争が頻繁となった。3世紀末以降の古墳時代に入り、各地に有力な地域的政治集団の首長が台頭、4~5世紀には畿内(きない)に基盤をもつ大和(やまと)政権がそれらの首長を服属せしめるようになった。大和政権の中央体制は諸氏族が政務を世襲的に分掌、大伴(おおとも)・物部(もののべ)氏などが軍事管掌者を世襲し、その武力は諸氏族より強大であった。
 5世紀以降の大和政権の軍事組織は、東国を主とする国造(くにのみやつこ)などの首長層の子弟からなる天皇直属親衛軍たる舎人(とねり)、おもに西国の国造などの首長層に率いられる兵士からなり大伴氏管理の靫負(ゆげい)、さらに宮門を守ってきた諸氏族(門守(かどもり))の子弟を軍事組織に再編成した門部(かどべ)の3軍が主要なもので、外征など大規模な軍を動かすときは、これらの軍を大伴・物部氏などが統率した。
 大化改新以後、中央集権的な律令(りつりょう)国家体制が完成、古代兵制も整備された。中央には軍事統轄機関の兵部(ひょうぶ)省、宮廷や都の警備にあたる五衛府(ごえふ)(左・右兵衛府(ひょうえふ)、衛門府、左・右衛士府(えじふ))、地方には軍団(兵力1000人、10日ごとに交代)が置かれ、国防上重要な辺境地には大宰府(だざいふ)の防人司(さきもりのつかさ)、陸奥(むつ)の鎮守府などが置かれた。律令制のもと全人民が戸籍を通じて国家に掌握され、役務の一つとして成年男子のなかから徴発された兵士(ひょうじ)が軍団に勤務した。兵士の一部は、衛士(えじ)として1年交代で中央の宮廷や都の警備に、また防人、鎮兵として3年交代で防人司、鎮守府に派遣された。国家的な常備軍体制である。班田農民の徴集を基礎としたこの兵制は、班田制の崩壊=荘園(しょうえん)の成長過程に対応して変遷を重ね、やがて軍団は廃止された。平安時代中期以後は全国的な統一ある軍制は実体を失い、かわって武力をもって奉仕する身分としての武士が現れ、源氏・平氏が武門の棟梁(とうりょう)として台頭してきた。[林 茂夫]
中世
1180年(治承4)に挙兵した源頼朝(よりとも)は、最初の武士政権を樹立し、やがて第二の藤原氏と化した平家を打倒、全国を平定して鎌倉に幕府を開設した。鎌倉幕府は、源氏に忠誠を誓い、その代償として所領を給与または安堵(あんど)された御家人(ごけにん)層の集団を基礎としていた。中央には御家人の軍事統率機関の侍所(さむらいどころ)があり、京都に守護(承久の乱後は六波羅探題(ろくはらたんだい))、九州に鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)(のち九州探題)、東北に奥州総奉行を置き、66国に守護(軍事最高指揮者)、各荘園に地頭(じとう)を配した。これらの要職には北条氏など有力御家人が補されたが、多くの御家人は在地領主(荘官)や荘園内の名主(みょうしゅ)からなり、戦時には家子(いえのこ)郎党を率いて出陣する義務を負っていた。平時の兵役義務として、京都大番、鎌倉大番、奥州総奉行、鎮西奉行などの諸役があった。だが、全国の武士すべてが「鎌倉御家人」であったのではない。いまだ権門勢家に庇護(ひご)を求め、あるいは自らを頼む新興の武士たち(非御家人)が各地に相当いたし、大寺社も独自の武力保持者であった。
 莫大(ばくだい)な軍費を要した元寇(げんこう)、さらに南北朝時代の戦乱を通じて御家人的小土地所有者階級が没落し、他方、守護層や新興地域領主層(国人(こくじん)領主)による荘園や寺社領の領地化、御家人・非御家人の臣従化が進行した。この進行過程で成立した室町幕府は少数の有力守護層の寄り合い世帯にすぎず、このため兵制にはみるべきものはなく、やがて幕府の軍事指揮権は事実上なくなり群雄割拠の戦国時代となった。
 戦国大名は独自に検地などを実施、貫高制を基準に軍役を賦課した。家臣団を一門衆、譜代(ふだい)、外様国衆(とざまくにしゅう)、旗本馬廻(うままわり)衆などに編成し、寄親(よりおや)・寄子制を採用して軍制を整えた。彼らは家臣団を物頭(ものがしら)・番頭(ばんがしら)・組頭(くみがしら)に統率させ、目付(めつけ)・横目などの監査役を置き、自らの親衛隊として旗本をもち、これらを家老・年寄が参謀・幕僚として統帥するという集団戦闘に堪えうる軍隊組織をつくりあげた。兵站(へいたん)部には領内の農民が動員され、槍(やり)と鉄砲の使用がそれを促進、足軽と野伏(のぶし)(野武士)、傭兵(ようへい)の利用が新たな問題となった。なかでも鉄砲足軽は戦争の運命を左右するほど重要になった。[林 茂夫]
近世
近世の軍事制度は、基本的には戦国大名の軍制を継承し、これを中央の織豊(しょくほう)政権ないし江戸幕府のもとで全国的に統合したものである。中世荘園制の解体により、政治支配が武家政権のもとに一元化され、軍事制度も全国的に統一ある組織になった。兵農分離と武士の城下町集住で、武士は個別領主としての自立性を弱められ、大名の統制のもと組織の一員として編成され、その兵站義務は農工商それぞれの役割に応じて課せられた。大名(藩)の上に織田氏や豊臣(とよとみ)氏、ついで徳川氏の将軍が軍事的な統率の権限を握っていたが、徳川将軍もまたその直属の家臣団である旗本・御家人との関係においては一つの巨大な大名であり、その将軍(幕府)の権力によって統合された幕藩体制の全体は、大名の連合政権というべき性格を帯びていた。
 将軍を最高首長とし、大名、交替寄合、旗本、御家人が将軍に直属し、さらにそれぞれの下に家臣が従属するという上下系列の主従関係が、戦時にはそのまま軍事的指揮系統となった(行政機構と軍事機構の一体性は、泰平(たいへい)の持続で行政機構的色彩が濃厚になる)。
 幕府直属の家臣団である旗本、御家人の軍事組織についてみると、旗本は番方(軍事的な役職)と役方(行政的な役職)に分かれ、番方には大番、書院番、小姓組番、新番、小十人(こじゅうにん)組の五番方があり、それぞれの番頭(がしら)に統率された。そして将軍の警衛や江戸城、二条城、大坂城などの警備にあたった。御家人には徒(かち)組、鉄炮(てっぽう)百人組、持弓(もちゆみ)組、持筒(もちつつ)組、先手(さきて)弓組、先手鉄炮組などの諸隊があり、それぞれの組頭の統率に服した。
 諸藩の軍事的な役職の制度もほぼ幕府と同様な原則で組織されていた。諸藩の大名は幕府の命により、その家臣を率いて出陣する義務を負い、また知行(ちぎょう)高に応じて人馬、武器などを準備する軍役が定められていた。
 軍制が基礎となって身分や行政組織などの政治制度が形成されていた近世においては、軍制の改変は政治的体制の改変に連なる。このため幕府は、幕藩体制の矛盾が深刻化し、対外危機が切迫するまで、全面的な軍制改革に踏み切れなかった。近代兵制は幕末の兵制改革を経て明治維新政権によって初めて整えられた。[林 茂夫]
『●ヨーロッパ ▽ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』上中下(岩波文庫) ▽トゥーキュディデース著、久保正彰訳『戦史』上中下(岩波文庫) ▽ギボン著、村上勇三訳『ローマ帝国衰亡史』全10巻(岩波文庫) ▽カエサル著、近山金次訳『ガリア戦記』(岩波文庫) ▽タキトゥス著、田中秀央他訳『ゲルマーニア』(岩波文庫) ▽ホイジンガ著、堀越孝一訳『中世の秋』上下(中公文庫) ▽ブルフィンチ著、野上弥生子訳『中世騎士物語』(岩波文庫) ▽セシル・モリソン著、橋口倫介訳『十字軍の研究』(白水社・文庫クセジュ) ▽マイケル・ハワード著、奥村房夫他訳『ヨーロッパ史と戦争』(1981・学陽書房) ▽クラウゼヴィッツ著、篠田英雄訳『戦争論』上中下(岩波文庫) ▽渡部昇一著『ドイツ参謀本部』(中公新書) ▽サミュエル・ハンチントン著、市川良一訳『軍人と国家』上下(1978・原書房)』
『●中国 ▽和田清編『支那官制発達史』再刊(1974・汲古書院) ▽『中国の歴史』全10巻(1974~75・講談社) ▽波多野善大著『中国近代軍閥の研究』(1973・河出書房新社) ▽宍戸寛著『中国紅軍史』(1979・河出書房新社) ▽孫金銘著『中国兵制史』第2版(1970・台湾・国防研究院・華岡書局・聯合出版中心・新亜出版発売) ▽包遵彭著『中国海軍史』上下(1969・台湾・中華叢書編審委員会)』

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