オーストリア継承戦争(読み)オーストリアケイショウセンソウ

デジタル大辞泉 「オーストリア継承戦争」の意味・読み・例文・類語

オーストリア‐けいしょうせんそう〔‐ケイシヨウセンサウ〕【オーストリア継承戦争】

1740~1748年、オーストリア王位継承をめぐって行われた国際戦争。オーストリア王女マリア=テレジアの即位に反対するバイエルンザクセン諸侯、フランススペイン王などと、イギリスを味方にしたオーストリアが対抗。アーヘンの和約により、マリアテレジアの王位継承、プロイセンシュレジエン領有などが認められた。

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精選版 日本国語大辞典 「オーストリア継承戦争」の意味・読み・例文・類語

オーストリア‐けいしょうせんそう‥ケイショウセンサウ【オーストリア継承戦争】

  1. 一七四〇~四八年、オーストリア王位継承をめぐって起きた戦争。オーストリア王女マリア=テレジアの即位に対し、ドイツ諸侯、フランス、スペイン王らが異議を唱えたもの。オーストリアはイギリスと同盟してこれに対抗。アーヘンの和約で終結し王位はマリア=テレジアに帰属し、プロイセンはシュレジエン(シロンスク)を獲得した。

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改訂新版 世界大百科事典 「オーストリア継承戦争」の意味・わかりやすい解説

オーストリア継承戦争 (オーストリアけいしょうせんそう)

神聖ローマ皇帝カール6世の長女マリア・テレジアのオーストリア継承をめぐって,1740-48年に行われた戦争。この領土相続は,列国の承認をえた〈国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)〉にもとづくものであったが,40年10月,マリア・テレジアが父の死とともにオーストリアの君主になると,バイエルン,ザクセンおよびスペインは,領土的野心から約束を破ってこれに異議を唱え,ハプスブルクと長年敵対関係にあるフランスがこれを支持した。一方,プロイセン王フリードリヒ2世も,根拠のない要求権をかかげてオーストリアのシュレジエン州を占領したが(第1次シュレジエン戦争の開始),フランスはプロイセンとも同盟した。このため,マリア・テレジアは,海外植民地をめぐりフランスと争っているイギリスの援助はあったものの(フランス領カナダをめぐるジョージ王戦争,1744-48),列強を向こうに回して苦しい戦いをよぎなくされた。フリードリヒは,シュレジエンの領有を条件に,42年オーストリアと個別講和を結んだが,この間にオーストリアが攻勢に出,連合軍をボヘミアから追ってバイエルンに侵入し,フランス軍もライン川方面で敗退するのを見て,44年8月戦争を再開,ボヘミアに兵を進めた(第2次シュレジエン戦争)。これに先立ち,バイエルン公カール・アルブレヒトは,カール7世として皇帝に選ばれていたが(1742年2月),45年初頭にオーストリアがイギリスのほかオランダ,ザクセンとも同盟を結び,ついでカール7世が没すると,バイエルンはオーストリア継承権を放棄,マリア・テレジアの夫トスカナ大公フランツ・シュテファンが皇帝に選ばれた(フランツ1世)。しかし,フリードリヒ2世との戦いにはマリア・テレジアも敗れ,45年12月のドレスデン和約で,シュレジエンの割譲を認めざるをえなかった。こうしてドイツでの戦闘は終わったが,その後もイタリアではスペイン,フランスがオーストリアとの戦いを続け,またオーストリア領ネーデルラントではフランス軍が連勝してオランダに脅威を与えた。しかしフランスは,ヨーロッパ内外の戦争で国力を消耗しイギリスと和平したので,新たにロシアがオーストリアと結びライン川方面に出兵するという情勢のもとで,48年10月18日,アーヘンの和約が成立した。

 オーストリア継承戦争は,当初からプロイセン,オーストリア間のシュレジエン戦争とからみ合い,その帰趨もこれによって大幅に規定されたが,さらに広く見れば,フランスとの植民地争奪戦のなかでイギリスが展開したヨーロッパ政策も,そこに深く作用している。結局,アーヘンの和約で,プロイセンは重要な工業地帯であるシュレジエンの領有を確保することでこの戦争の実質的な勝利者となった反面,マリア・テレジアは,オーストリア全領土の継承を認められたものの,大きな痛手をうけ,ここからオーストリア,イギリス間に政治的な疎隔が生まれることとなった。
七年戦争
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百科事典マイペディア 「オーストリア継承戦争」の意味・わかりやすい解説

オーストリア継承戦争【オーストリアけいしょうせんそう】

1740年―1748年,ハプスブルク家の王位と領土の継承権をめぐり行われた戦争。神聖ローマ帝国皇帝カール6世没後,オーストリア王位についたマリア・テレジアに反対して,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト,スペイン王フェリペ5世,ザクセン侯アウグスト3世がその王位を要求し,さらにプロイセン,フランスが介入した。アーヘンの和約で終結。→シュレジエン戦争
→関連項目英仏植民地戦争オーストリア七年戦争ジョージ王戦争フリードリヒ[2世]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オーストリア継承戦争」の意味・わかりやすい解説

オーストリア継承戦争
おーすとりあけいしょうせんそう

1740~48年のオーストリア王位継承をめぐる国際戦争。18世紀以降、イギリスの世界的優位とプロイセン・ドイツの台頭をもたらす契機となった。植民地をめぐる西欧列強、とくに英仏の対立が激化するなかで、神聖ローマ皇帝カール6世は長女マリア・テレジアへの相続のために努力してきた。1740年カールが没すると、バイエルン選帝侯カール・アルバートはその相続権を主張した。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)も、マリア・テレジアの継承を認めながら、その条件としてシュレージエン四公領の相続を要求し、和戦両用の戦略により、40年冬シュレージエンを占領した。フランスもバイエルンを支持してプロイセンと結び、41年11月プラハを占領し、選帝侯は皇帝カール7世Karl Ⅶ(1697―1745、在位1742~45)となった。

 イギリスは、世界戦略のなかでオーストリアを支持し、ブルボン連合からプロイセンの脱落をはかり、プロイセン・オーストリア間の密約に成功する。反撃に転じたマリア・テレジアが、イギリス王ジョージ2世の大陸出兵に助けられて優位にたつと、フリードリヒはふたたびベーメンに軍を進めたが、カール7世の死もあって、1745年シュレージエンの確保を条件にドレスデンに和を結び、マリア・テレジアの相続とその夫皇帝フランツ1世の選立を認めた。その後も世界の各地で戦争は続いたが、ネーデルラントの戦場にオーストリアと結んだロシアの出兵が決定的になって、48年アーヘンの和約となり、戦争は終結した。

[進藤牧郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストリア継承戦争」の意味・わかりやすい解説

オーストリア継承戦争
オーストリアけいしょうせんそう
War of the Austrian Succession

1740~48年オーストリアの支配権継承をめぐって争われた国際戦争。 40年神聖ローマ皇帝カルル6世の没後,ドイツ諸侯やイギリス,オランダなど列国の承認を得た国事詔書に従い,その長女マリア・テレジアが全ハプスブルク領を継承した。しかしザクセン,バイエルンなど相続権をもつ諸侯が継承権を要求,同年即位したプロシア王フリードリヒ2世 (大王)シュレジエンを要求して戦争となった。フランスはプロシア側につき,イギリスはオーストリアと同盟したので,この戦争は,オーストリア,プロシア間ではシュレジエン戦争,植民地アメリカでのイギリス,フランス間ではジョージ王戦争と呼ばれる。 42年にはバイエルン選帝侯がカルル7世として帝位につくなどのこともあったが,マリア・テレジアの奮闘で 45年9月,その夫君フランツが正式に神聖ローマ皇帝に選ばれ,48年 10月のアーヘンの和約で,シュレジエンがプロシアに譲られたほかは,オーストリアの領土は保全された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オーストリア継承戦争」の解説

オーストリア継承戦争(オーストリアけいしょうせんそう)
Österreichischer Erbfolgekrieg

1740年から48年にかけて,ハプスブルク家の領土の継承権をめぐって行われた戦争。ハプスブルクの弱体化を図るプロイセンおよびブルボン朝のフランス,スペインは,プラグマティッシェ・ザンクツィオンの効力に異議を唱え,やはり相続権を主張するバイエルンと提携しつつオーストリアを攻撃。42年にはバイエルン大公を帝位につけさえした(カール7世)が,マリア・テレジアの果敢な抵抗と,イギリスが植民地問題でフランスと開戦(ジョージ王戦争)したことによって,オーストリアは危地を脱し,アーヘンの和約シュレージエンを失ったほかは,ほぼ全領土を確保することができた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「オーストリア継承戦争」の解説

オーストリア継承戦争
オーストリアけいしょうせんそう
War of the Austrian Succession

1740年から48年にかけて行われた,ハプスブルク家の家領相続と帝位継承権をめぐる国際戦争
カール6世は,1724年にプラグマティック−ザンクション(国事詔書)を公示し,帝国不分割と継承権を娘マリア=テレジアに認め,列国も承認した。しかし彼の死後,バイエルン選帝侯カール=アルベルトが帝位継承権を主張し,フランス・スペインの支持を得てカール7世と称した。この機をとらえてプロイセンのフリードリヒ2世(大王)が出兵し,シュレジエンを占領。マリア=テレジアはイギリスの援助とハンガリーの支援を得て苦境を脱した。またイギリスも大陸と海外植民地でフランス・スペイン連合軍を破った(ジョージ王戦争)。のちロシアがオーストリアに救援軍を送るに及び,戦争は終結。1748年のアーヘン和約により,マリア=テレジアの王位継承権(帝位は夫フランツが継承)とプロイセンのシュレジエン領有が承認された。

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世界大百科事典(旧版)内のオーストリア継承戦争の言及

【ハプスブルク家】より


[啓蒙君主たち]
 しかしオーストリア家はネーデルラントとイタリアの旧スペイン領を併せ,カール6世は同じ年の1713年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を制定し,広大な世襲領の永久不分割と長子相続を図ったが,継承者に男子を欠き,長女マリア・テレジアの一括相続のために譲歩を重ね,国際的承認を得ていた。しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。45年ドレスデン和約で,シュレジエンを失うが,世襲領の相続とともに夫フランツ1世Franz I(神聖ローマ皇帝,在位1745‐65)に皇帝位を確保した。…

【フリードリヒ[2世]】より

…フリードリヒ・ウィルヘルム1世の子であるが,およそ文化に無関心な父と異なり,少年時代からフランス風の文芸や音楽を好み,即位の前年に著した《反マキアベリ論》で開明的な君主の理想を描いた。しかし王座に登るとまもなく,マリア・テレジアのオーストリア継承権に異議を唱えてシュレジエンを不法に占領し,マキアベリストの本質をあらわにする(オーストリア継承戦争)。戦勝により豊かなシュレジエン地方を併合した王は,重商主義政策で国力の充実を図る一方,信教の自由の容認や学校教育の改善などに啓蒙君主としての面目を発揮した。…

※「オーストリア継承戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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