神聖ローマ皇帝カール6世の長女マリア・テレジアのオーストリア継承をめぐって,1740-48年に行われた戦争。この領土相続は,列国の承認をえた〈国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)〉にもとづくものであったが,40年10月,マリア・テレジアが父の死とともにオーストリアの君主になると,バイエルン,ザクセンおよびスペインは,領土的野心から約束を破ってこれに異議を唱え,ハプスブルクと長年敵対関係にあるフランスがこれを支持した。一方,プロイセン王フリードリヒ2世も,根拠のない要求権をかかげてオーストリアのシュレジエン州を占領したが(第1次シュレジエン戦争の開始),フランスはプロイセンとも同盟した。このため,マリア・テレジアは,海外植民地をめぐりフランスと争っているイギリスの援助はあったものの(フランス領カナダをめぐるジョージ王戦争,1744-48),列強を向こうに回して苦しい戦いをよぎなくされた。フリードリヒは,シュレジエンの領有を条件に,42年オーストリアと個別講和を結んだが,この間にオーストリアが攻勢に出,連合軍をボヘミアから追ってバイエルンに侵入し,フランス軍もライン川方面で敗退するのを見て,44年8月戦争を再開,ボヘミアに兵を進めた(第2次シュレジエン戦争)。これに先立ち,バイエルン公カール・アルブレヒトは,カール7世として皇帝に選ばれていたが(1742年2月),45年初頭にオーストリアがイギリスのほかオランダ,ザクセンとも同盟を結び,ついでカール7世が没すると,バイエルンはオーストリア継承権を放棄,マリア・テレジアの夫トスカナ大公フランツ・シュテファンが皇帝に選ばれた(フランツ1世)。しかし,フリードリヒ2世との戦いにはマリア・テレジアも敗れ,45年12月のドレスデン和約で,シュレジエンの割譲を認めざるをえなかった。こうしてドイツでの戦闘は終わったが,その後もイタリアではスペイン,フランスがオーストリアとの戦いを続け,またオーストリア領ネーデルラントではフランス軍が連勝してオランダに脅威を与えた。しかしフランスは,ヨーロッパ内外の戦争で国力を消耗しイギリスと和平したので,新たにロシアがオーストリアと結びライン川方面に出兵するという情勢のもとで,48年10月18日,アーヘンの和約が成立した。
オーストリア継承戦争は,当初からプロイセン,オーストリア間のシュレジエン戦争とからみ合い,その帰趨もこれによって大幅に規定されたが,さらに広く見れば,フランスとの植民地争奪戦のなかでイギリスが展開したヨーロッパ政策も,そこに深く作用している。結局,アーヘンの和約で,プロイセンは重要な工業地帯であるシュレジエンの領有を確保することでこの戦争の実質的な勝利者となった反面,マリア・テレジアは,オーストリア全領土の継承を認められたものの,大きな痛手をうけ,ここからオーストリア,イギリス間に政治的な疎隔が生まれることとなった。
→七年戦争
執筆者:成瀬 治
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1740~48年のオーストリア王位継承をめぐる国際戦争。18世紀以降、イギリスの世界的優位とプロイセン・ドイツの台頭をもたらす契機となった。植民地をめぐる西欧列強、とくに英仏の対立が激化するなかで、神聖ローマ皇帝カール6世は長女マリア・テレジアへの相続のために努力してきた。1740年カールが没すると、バイエルン選帝侯カール・アルバートはその相続権を主張した。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)も、マリア・テレジアの継承を認めながら、その条件としてシュレージエン四公領の相続を要求し、和戦両用の戦略により、40年冬シュレージエンを占領した。フランスもバイエルンを支持してプロイセンと結び、41年11月プラハを占領し、選帝侯は皇帝カール7世Karl Ⅶ(1697―1745、在位1742~45)となった。
イギリスは、世界戦略のなかでオーストリアを支持し、ブルボン連合からプロイセンの脱落をはかり、プロイセン・オーストリア間の密約に成功する。反撃に転じたマリア・テレジアが、イギリス王ジョージ2世の大陸出兵に助けられて優位にたつと、フリードリヒはふたたびベーメンに軍を進めたが、カール7世の死もあって、1745年シュレージエンの確保を条件にドレスデンに和を結び、マリア・テレジアの相続とその夫皇帝フランツ1世の選立を認めた。その後も世界の各地で戦争は続いたが、ネーデルラントの戦場にオーストリアと結んだロシアの出兵が決定的になって、48年アーヘンの和約となり、戦争は終結した。
[進藤牧郎]
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1740年から48年にかけて,ハプスブルク家の領土の継承権をめぐって行われた戦争。ハプスブルクの弱体化を図るプロイセンおよびブルボン朝のフランス,スペインは,プラグマティッシェ・ザンクツィオンの効力に異議を唱え,やはり相続権を主張するバイエルンと提携しつつオーストリアを攻撃。42年にはバイエルン大公を帝位につけさえした(カール7世)が,マリア・テレジアの果敢な抵抗と,イギリスが植民地問題でフランスと開戦(ジョージ王戦争)したことによって,オーストリアは危地を脱し,アーヘンの和約でシュレージエンを失ったほかは,ほぼ全領土を確保することができた。
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[啓蒙君主たち]
しかしオーストリア家はネーデルラントとイタリアの旧スペイン領を併せ,カール6世は同じ年の1713年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を制定し,広大な世襲領の永久不分割と長子相続を図ったが,継承者に男子を欠き,長女マリア・テレジアの一括相続のために譲歩を重ね,国際的承認を得ていた。しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。45年ドレスデン和約で,シュレジエンを失うが,世襲領の相続とともに夫フランツ1世Franz I(神聖ローマ皇帝,在位1745‐65)に皇帝位を確保した。…
…フリードリヒ・ウィルヘルム1世の子であるが,およそ文化に無関心な父と異なり,少年時代からフランス風の文芸や音楽を好み,即位の前年に著した《反マキアベリ論》で開明的な君主の理想を描いた。しかし王座に登るとまもなく,マリア・テレジアのオーストリア継承権に異議を唱えてシュレジエンを不法に占領し,マキアベリストの本質をあらわにする(オーストリア継承戦争)。戦勝により豊かなシュレジエン地方を併合した王は,重商主義政策で国力の充実を図る一方,信教の自由の容認や学校教育の改善などに啓蒙君主としての面目を発揮した。…
※「オーストリア継承戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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