改訂新版 世界大百科事典 「内藤氏」の意味・わかりやすい解説
内藤氏 (ないとううじ)
(1)周防,長門の中世武家。大内氏の重臣で15世紀半ばから長門守護代を世襲。内舎人(うどねり)の藤原氏から出た名字で,秀郷(ひでさと)流とも道長流とも伝えるが確証を得ない。〈盛〉の字を通字とした。鎌倉中期の史料によれば尾張国に地頭職をもっており,系図では平安時代の領有と伝えるので,東国に本拠をもち京都に出仕する武士だったらしい。1187年(文治3)内藤盛経らが周防国で東大寺の年貢米を横領し,90年(建久1)には内藤盛家が周防国遠石荘内石清水別宮領に乱入するなど,鎌倉初期に一族の周防での活動が目だち,周防に新所領を獲得したことがわかる。のちに周防国熊毛郡小周防を本拠とするようになるのは,モンゴル襲来にそなえて鎌倉幕府が西国に所領をもつ東国御家人に西国居住を強制してからであろう。室町初期から内藤盛貞(入道智得)が大内氏の重臣となって長門守護代となり,その子有貞も守護代となって,以後長門守護代を世襲した。毛利氏の代にも庶家隆春が守護代となった。
執筆者:木村 忠夫(2)近世大名。譜代。応仁(1467-69)のころ三河国に移り住んだといわれ,重清のとき,岩津から安城に進出した松平宗家4代親忠に臣属し,碧海郡姫小川に居住していたと思われる。重清の子義清は松平宗家の重臣で岡崎五人衆の一人といわれ,三河国上野(下村)城を与えられた。内藤氏はこの時期,本願寺門徒であったが,義清は浄土宗に改宗したらしい。内藤氏が徳川家康の部将として著名になったのは義清の孫家長のときである。家長は三河一向一揆のさい一揆方にくみせず家康に忠節をつくし,永禄(1558-70)末年の軍制で一手の大将となった。1590年(天正18)の小田原征伐での家長の軍は50騎,雑兵数百人という。その子政長は陸奥国磐城平7万石を領し,1747年(延享4)政樹のとき,日向国延岡に転封(延岡藩)。政長の子政晴は2万石を与えられて子孫は三河国挙母(ころも)を領し,政長の孫政亮は陸奥国湯長谷(ゆながや)で1万石を領した。徳川家康の異母弟といわれ内藤氏の養子となった信成は一方の侍大将で活躍し,その子信正は5万石で伏見城代,大坂城代となり,1720年(享保5)弌信(かずのぶ)のとき,越後国村上に定着。また家長の従兄弟の正成は弓矢の達人で勇名をはせた。その弟忠政の子清成は将軍秀忠の老臣で関東総奉行となり,清成の孫重頼は,大坂城代,所司代に就任して3万3000石を領した。その子清枚(きよかず)のとき,信濃国高遠に定着(高遠藩)。清成の弟正次の子孫は信濃国岩村田で1万5000石を領した。以上6大名家とも維新後子爵。
執筆者:煎本 増夫
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