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高遠藩 たかとおはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高遠藩
たかとおはん

江戸時代,信濃国 (長野県) 伊那地方を領有した藩。慶長5 (1600) 年保科氏が毛利氏のあとをうけて下総多古 (千葉県) から2万 5000石で入封,元和4 (18) 年に 5000石を加増されたが,寛永 13 (36) 年保科氏が出羽山形へ転出。

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百科事典マイペディアの解説

高遠藩【たかとおはん】

信濃国伊那郡高遠(現長野県伊那市)を城地とした藩。1600年保科正光が伊那郡北部2万5000石を領して成立。1636年正光の子保科正之は出羽国山形へ移り,鳥居忠春が3万余石(伊那郡・筑摩郡のうち)で入封。
→関連項目高遠[町]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

たかとおはん【高遠藩】

江戸時代信濃(しなの)国伊那郡高遠(現、長野県伊那市高遠町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は進徳館。当地は、戦国時代に諏訪氏の一族高遠氏が治めていたが、武田信玄に滅ぼされた。その武田氏も1582年(天正(てんしょう)12)に織田信忠(のぶただ)に攻められて落城。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いを経て2万5000石で保科正光(ほしなまさみつ)が入り、高遠藩が成立した。1615年(元和(げんな)1)に5000石加増。3代将軍徳川家光(いえみつ)の弟で保科正光の養子となった正之(まさゆき)は36年(寛永(かんえい)13)、20万石に加増され出羽(でわ)国 山形藩に移封(いほう)となった。入れ替わりで山形から鳥居忠春(ただはる)が3万200石で入ったが、鳥居氏は2代で89年(元禄2)に改易(かいえき)され、高遠藩は廃藩となった。天領となったあと、91年に摂津(せっつ)国富田林(とんだばやし)藩から内藤清枚(きよかず)が3万3000石で入り、以後明治維新まで内藤氏8代が続いた。2代藩主頼卿(よりのり)の1714年(正徳(しょうとく)4)に、江戸城大奥女中の絵島が当地に配流されている(絵島事件)。1871年(明治4)の廃藩置県で高遠県となり、その後筑摩(ちくま)県を経て76年長野県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

たかとおはん【高遠藩】

信濃国(長野県)伊那郡高遠に藩庁を置いた譜代小藩。高遠には中世以来山城があったが,1582年(天正10)武田氏滅亡に先だって織田信忠に攻められ落城,信長の臣毛利秀頼の領となる。のち保科,毛利,京極と領主がかわり,1600年(慶長5)保科氏が再び下総国多古から2万5000石で入封,18年(元和4)5000石を加増されたが,36年(寛永13)出羽国山形へ転出。次いで同年鳥居氏が3万2000石,91年(元禄4)内藤清枚(きよかず)が3万3000石で入封し,以来廃藩置県まで内藤氏が藩主。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高遠藩
たかとおはん

信濃(しなの)国(長野県)高遠地方を領有した藩。織田氏の高遠城攻め(1582)のあと、徳川家康に属して高遠城へ入った保科(ほしな)氏は、家康の関東転封とともに下総(しもうさ)(千葉県)多古(たこ)に移り、10年後の1600年(慶長5)ふたたび高遠藩2万5000石を領有。15年(元和1)松本平洗馬(まつもとだいらせば)地方5000石が加増された。徳川家光(いえみつ)の弟で、保科正光の養子となった正之(まさゆき)は1636年(寛永13)出羽(でわ)山形20万石の城主となって転封、かわって山形22万石を無嗣(むし)除封となった鳥居忠恒(とりいただつね)の弟忠春が新封3万石で高遠へ入った。しかし小藩ゆえ財政は窮乏し苛政(かせい)の結果、1654年(承応3)には領内農民3000人が逃亡した。次代忠則のとき家臣の不審な行為を理由に閉門となり、忠則もまもなく死去、高遠領は幕領となった(その子忠英(ただてる)は能登(のと)下村1万石に転出)。松本藩預りの天領治政で竿(さお)入れされた1690年(元禄3)の全藩検地は厳しく、このとき打ち出された6000余石は幕府領に編入された。翌年、摂津・河内(かわち)ほかで3万3000石を領していた内藤清枚(きよかず)が入って3万3000石を領有し、以後8代を経て、明治維新に至る。譜代(ふだい)小藩内藤氏も財政苦しく、藩内の収奪米は、『伊那節(いなぶし)』に歌われるごとく、木曽(きそ)谷に領内の仕送役を通じて送られ、文政(ぶんせい)期(1818~30)わらじ騒動の全藩一揆(いっき)に直面するが、豪農層による文政・天保(てんぽう)(1818~44)の財政改革により破滅の危機を逃れた。坂本天山によった高遠藩学は中村中(ちゅうそう)(元恒(もとつね))の登用により復興し、その子中村元起(げんき)による藩校進徳館より逸材が輩出した。大奥女中絵島の配流は1714年(正徳4)のことである。[堀口貞幸]
『北原真人著『近世伊那高遠』(1977・伊那毎日新聞社) ▽長谷川正次著『高遠藩年表』(1980・青山社)』

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