百科事典マイペディア 「高遠藩」の意味・わかりやすい解説
高遠藩【たかとおはん】
→関連項目高遠[町]
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信濃(しなの)国(長野県)高遠地方を領有した藩。織田氏の高遠城攻め(1582)のあと、徳川家康に属して高遠城へ入った保科(ほしな)氏は、家康の関東転封とともに下総(しもうさ)(千葉県)多古(たこ)に移り、10年後の1600年(慶長5)ふたたび高遠藩2万5000石を領有。15年(元和1)松本平洗馬(まつもとだいらせば)地方5000石が加増された。徳川家光(いえみつ)の弟で、保科正光の養子となった正之(まさゆき)は1636年(寛永13)出羽(でわ)山形20万石の城主となって転封、かわって山形22万石を無嗣(むし)除封となった鳥居忠恒(とりいただつね)の弟忠春が新封3万石で高遠へ入った。しかし小藩ゆえ財政は窮乏し苛政(かせい)の結果、1654年(承応3)には領内農民3000人が逃亡した。次代忠則のとき家臣の不審な行為を理由に閉門となり、忠則もまもなく死去、高遠領は幕領となった(その子忠英(ただてる)は能登(のと)下村1万石に転出)。松本藩預りの天領治政で竿(さお)入れされた1690年(元禄3)の全藩検地は厳しく、このとき打ち出された6000余石は幕府領に編入された。翌年、摂津・河内(かわち)ほかで3万3000石を領していた内藤清枚(きよかず)が入って3万3000石を領有し、以後8代を経て、明治維新に至る。譜代(ふだい)小藩内藤氏も財政苦しく、藩内の収奪米は、『伊那節(いなぶし)』に歌われるごとく、木曽(きそ)谷に領内の仕送役を通じて送られ、文政(ぶんせい)期(1818~30)わらじ騒動の全藩一揆(いっき)に直面するが、豪農層による文政・天保(てんぽう)(1818~44)の財政改革により破滅の危機を逃れた。坂本天山によった高遠藩学は中村中倧(ちゅうそう)(元恒(もとつね))の登用により復興し、その子中村元起(げんき)による藩校進徳館より逸材が輩出した。大奥女中絵島の配流は1714年(正徳4)のことである。
[堀口貞幸]
『北原真人著『近世伊那高遠』(1977・伊那毎日新聞社)』▽『長谷川正次著『高遠藩年表』(1980・青山社)』
信濃国(長野県)伊那郡高遠に藩庁を置いた譜代小藩。高遠には中世以来山城があったが,1582年(天正10)武田氏滅亡に先だって織田信忠に攻められ落城,信長の臣毛利秀頼の領となる。のち保科,毛利,京極と領主がかわり,1600年(慶長5)保科氏が再び下総国多古から2万5000石で入封,18年(元和4)5000石を加増されたが,36年(寛永13)出羽国山形へ転出。次いで同年鳥居氏が3万2000石,91年(元禄4)内藤清枚(きよかず)が3万3000石で入封し,以来廃藩置県まで内藤氏が藩主。1714年(正徳4)大奥年寄江(絵)島が配流され,藩預りとなる(江島事件)。早くから藩財政は窮乏し,1822年(文政5)には重課に抗して百姓一揆も起きた(高遠騒動)。学術では18世紀後半に坂本天山が出て天山流砲術をあみだし藩学を振興した。その学統を継承して60年(万延1)藩校進徳館が設立された。
執筆者:北原 真人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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