円徳寺(読み)えんとくじ

日本歴史地名大系 「円徳寺」の解説

円徳寺
えんとくじ

[現在地名]岐阜市神田町

功徳山と号し、浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、寿永二年(一一八三)比叡山延暦寺の寂円によって長旗ながはたに創建された天台宗功徳山法泉ほうせん寺を前身とするという。嘉禎元年(一二三五)二世寂照が親鸞に帰依して真宗に改め、浄泉じようせん坊と称したとされる。永禄七年(一五六四)一一月一一日、織田信長加納かのう郷浄泉坊に梵鐘を施入している(「梵鐘陰刻銘」寺蔵)

円徳寺
えんとくじ

[現在地名]生野区巽中四丁目

真宗大谷派、山号樹法山、本尊阿弥陀如来。開基は大地おおじの地侍的官吏で、室町幕府将軍足利義尚の配下に属した上場又三郎正欽。長享元年(一四八七)正欽は義尚に従して近江坂本さかもとで六角高頼と戦ったが、無常を感じて翌年本願寺蓮如に帰依し、法欽と号して私宅を道場に改めた(寺蔵由緒書)。寺蔵の蓮如自筆六字名号二幅、正信偈文はこのとき蓮如より下付されたと思われる。

円徳寺
えんとくじ

[現在地名]徳島市西大工町三丁目

てら町の東部にある。紫雲山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寺伝および「阿波志」によると永正七年(一五一〇)に本願寺実如により三河国碧海あおみ志貴しき(現愛知県安城市)に創建されて大坊と称したという。その後実如の弟子梅林春左衛門秀行が出家し祐善となって寺基を継ぎ、三世祐斎のとき蜂須賀氏に従って播州龍野に移り紫雲庵と称していた。天正一三年(一五八五)蜂須賀氏の阿波入国に従って城下寺島てらしまに移り、さらに文禄年中(一五九二―九六)四世祐賢のとき寺町に寺地を得て再建し、現在の寺名を称したとする。

円徳寺
えんとくじ

[現在地名]仲南町七箇 照井

まる山の麓にある。真宗興正派、照林山永王院と号する。本尊阿弥陀如来。「讃岐国名勝図会」によると、永禄五年(一五六二)蒲生氏郷の甥で当時江州三井みい寺の坊官であった日野源左衛門正蓮は、蓮如の連枝蓮淳僧都在番のとき武士を捨てて妻とともに仏門に入り、それぞれ釈正蓮・妙祐と改め、法然を慕って小松こまつ庄に草堂を建立。その後弟子正意に草堂を与えて七箇しちか村に移住。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の円徳寺の言及

【加納市】より

…戦国時代,美濃国厚見郡加納郷(現,岐阜市)の真宗寺院円徳寺の寺内にあった楽市場。円徳寺(浄泉坊)は当時その門前に寺内町を形成していた。…

※「円徳寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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