大地村(読み)おおじむら

日本歴史地名大系 「大地村」の解説

大地村
おおじむら

[現在地名]生野区たつみなか二―四丁目・西にし二―四丁目・みなみ三丁目〉

渋川郡に属し、伊加賀いかが村の西にある。平野川の支流が北流する。古代渋川郡邑智おうち(和名抄)の地で、「河内志」に「旧作邑智」とある。「日本書紀」仁徳天皇一三年一〇月条に「是月に、横野堤を築く」とある横野よこの堤の跡は、字印地いんじの横野神社旧地付近といわれ、「河内志」はこの付近は「今猶海潮到溝渠、土亦鹹鹵」と記す。古代に当地付近にまで入込んでいた潮水を防ぐために築かれた堤とも考えられる。「横野」は歌枕として知られ、歌学書は上野国とするが、当地の可能性もある。


大地村
おおじむら

[現在地名]寺泊町大地

よし村の北、西は丘陵を隔てて寺泊町、東は谷を挟んできよう入新いりしん村、北は円上寺えんじようじ村。沖積平地が丘陵に入組んだ谷の中ほどに発達した集落。慶長二年(一五九七)検地帳(山田謙治家文書)が残り、表紙に「中使 市右衛門」「蒲原郡之内大地村御検地帳」「山岸中務分」と記される。田地は本斗・見取合計五一石五斗余、名請人一四名のうち屋敷持は五名。正保国絵図には蒲原かんばら郡内に「大地村」高九三石余がみえ幕府領。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳では三島郡に属し高一一四石三斗余とみえる。


大地村
だいちむら

[現在地名]岩倉市大地町・大地新だいちしん町・南新みなみしん

北と東は岩倉村、南は川井かわい村、西は野寄のより村に接する。天保村絵図によれば、村域の東半分は上田・上畑で島畑も上畑。西半分は中田・下田、中畑・下畑。集落は東半分にあって、その中央に正起しようき寺が描かれている。慶長六年(一六〇一)五月一日の松平忠吉知行朱印状(東京都沢井昭之氏蔵)に「一、八百弐拾九石 同丹羽郡大地村」とあるのが初見。

付家老竹腰山城守の采地村。高八九四石余、田は五一町余、畑は二二町九反六畝余。そのほかに、延宝八年(一六八〇)縄入高請の給人自分起新田一三石余がある。


大地村
だいちむら

[現在地名]小坂町大地

鹿角盆地の北部、小坂川中流右岸の山麓部に位置し、北は小坂村。現たてなかさき馬子平まごのたいに縄文期の遺跡がある。天明七年(一七八七)の知行小高百姓年貢帳(十和田図書館蔵)に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「大地村 大地甚之進領知 本名成田 館あり」とあり、中世後期には開村していた。集落北側台地大字館に中世の館跡があり、連郭状平坦面および館神八幡を残す。比高およそ三五―四〇メートル、郭は南北に連なり、南にも破壊された郭が認められる。東西に二条の空堀を施し、西側に帯郭が認められる。


大地村
おおちむら

[現在地名]上県町佐須奈甲さすなこう 大地

佐須奈の浦の中ほどの南岸にある。佐須奈村枝郷。「津島紀略」では佐須奈三ヵ村の一つで、大内として於保知と訓じる。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では佐護さご郷佐須奈村の在家三ヵ所として大内と記され、肝入が置かれた。「津島紀事」では大地とあり、遠於知と読む。天保郷帳では佐須奈村とは別に同村枝郷として大地村・日吉ひよし村が記される。「楽郊紀聞」によれば、「大知」は佐須奈浦村ともよばれ、百姓家一〇軒ほどという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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