江戸中期の俳人。野沢氏。名は允昌(むつまさ)。俳号は初め加生(かせい)、晩年は阿圭(あけい)とも称した。金沢の人で、京に出て医を業としたが、やがて蕉風俳諧(しょうふうはいかい)に近づき、1690年(元禄3)から翌年にかけて、近江(おうみ)・京方面に滞在していた芭蕉(ばしょう)から親しく指導を受け、去来とともに『猿蓑(さるみの)』(1691)の編纂(へんさん)にあたるなど、一躍蕉門の代表的作家の地位を獲得した。しかし、その後まもなく芭蕉から遠ざかり、また事に座して投獄されたりしたため、作風はまったく生彩を失うようになり、とくに晩年は零落した生活を送ったらしい。『猿蓑』時代の俳風は、具象性、叙景性に優れ、感覚的で印象鮮明な句にみるべきものがあった。俳人羽紅(うこう)は彼の妻である。
[堀切 實]
『井本農一著『野沢凡兆』(『俳句講座2』所収・1959・明治書院)』▽『中島斌雄著『同門評判Ⅲ 凡兆』(『芭蕉の本3』所収・1970・角川書店)』▽『堀切實著『凡兆論の試み』(『芭蕉・蕪村・一茶』所収・1978・雄山閣出版)』
江戸前期の俳人。生年不詳であるが,芭蕉より年長か。姓は野沢,また宮城,越野,宮部ともいわれるが確証はない。名は允昌(いんしよう)。金沢の人。京へ出て医を業とし,達寿を号した。俳諧の初号は〈加賀の人〉の意で加生。晩年は阿圭。1688年(元禄1)4月ころ,京で芭蕉とあい知り,90年夏には,去来と《猿蓑(さるみの)》の共撰を命じられ,芭蕉のねんごろな指導のもと翌年に完成した。同書には44句の発句を収めるが,これは集中第1の入集数である。これにより,凡兆の名は広く世に知られるに至ったが,この後芭蕉から遠ざかるに従い,俳諧活動は急速に衰える。もっとも,93年凡兆の妻とめ(羽紅尼)にあてて懇切な手紙を芭蕉は書き送っているから,離反といった事態ではなかったと推測される。93年,罪を得て下獄。98年ころには出獄して大坂に移住したが,舎羅などのほかは蕉門俳人との交際も乏しく,落魄(らくはく)の生活を送った。作風は,主観的色調の濃い元禄俳諧の中にあっては珍しく印象鮮明な叙景句が多く,近代の子規らに高く評価された。〈下京や雪つむ上の夜の雨〉(《猿蓑》)。
執筆者:桜井 武次郎
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…2匁5分。編者は京蕉門の去来・凡兆であるが,おくのほそ道行脚の後,上方滞在中の芭蕉がこれを後見し,行脚による新風開眼の成果を盛って,俳壇の蕉門認識を新たにした。蕉門の許六・支考が〈俳諧の古今集〉と評しているように,蕉風円熟期を代表する撰集で,のちに《俳諧七部集》の第5集となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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