デジタル大辞泉
「野沢凡兆」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
のざわ‐ぼんちょう【野沢凡兆】
- 江戸中期の俳人。金沢の人。名は允昌。別号は加生、阿圭など。京都で医を業とした。元祿三~四年(一六九〇‐九一)の頃、在京の芭蕉に師事。去来と共に「猿蓑」の編纂に従い、蕉門の代表的俳人となって蕉風発展に尽くした。「猿蓑」に四一句入集。正徳四年(一七一四)没。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
野沢凡兆
のざわぼんちょう
[生]? 金沢
[没]正徳4(1714).大坂
江戸時代中期の俳人。宮城氏,越野氏,宮部氏ともいわれる。名,允昌。通称,長次郎。医名,達寿。別号,加生,阿圭。金沢から京都へ出て医を業とし,元禄3 (1690) 年在京中の松尾芭蕉に妻の羽紅とともに師事。蕉風の代表的選集『猿蓑』を向井去来と共編。その後芭蕉と疎遠になり句境も低調化し,同6年には事に座して入獄,同 11年出獄したが,以後は大坂に落魄の生活をおくり,60歳余で没。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
野沢凡兆 のざわ-ぼんちょう
?-1714 江戸時代前期-中期の俳人。
京都で医を業とした。妻の野沢羽紅とともに松尾芭蕉(ばしょう)に師事。向井去来(きょらい)と「猿蓑(さるみの)」の編集に参加し,同書中に最多の41句がえらばれる。のち芭蕉からはなれ,大坂でくらした。正徳(しょうとく)4年死去。加賀(石川県)出身。名は允昌(霄)。別号に加生,阿圭。
【格言など】野馬(かげろふ)に子供あそばす狐哉(「猿蓑」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
Sponserd by 
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内の野沢凡兆の言及
【凡兆】より
…江戸前期の俳人。生年不詳であるが,芭蕉より年長か。姓は野沢,また宮城,越野,宮部ともいわれるが確証はない。名は允昌(いんしよう)。金沢の人。京へ出て医を業とし,達寿を号した。俳諧の初号は〈加賀の人〉の意で加生。晩年は阿圭。1688年(元禄1)4月ころ,京で芭蕉とあい知り,90年夏には,去来と《[猿蓑](さるみの)》の共撰を命じられ,芭蕉のねんごろな指導のもと翌年に完成した。同書には44句の発句を収めるが,これは集中第1の入集数である。…
※「野沢凡兆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 