百科事典マイペディア 「前川国男」の意味・わかりやすい解説
前川国男【まえかわくにお】
→関連項目国立西洋美術館|CIAM|丹下健三|東京都美術館|富山県立近代美術館|浜口隆一|福岡市美術館|宮城県美術館|山梨県立美術館
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昭和期の建築家 前川国男建築設計事務所代表取締役。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
建築家。新潟市に生まれる。1928年(昭和3)東京帝国大学建築学科卒業。渡仏してル・コルビュジエに師事。2年後帰国し、レイモンド建築設計事務所に入る。35年独立して事務所を開設。東京帝室博物館の競技設計(1931)に落選を覚悟で新しいスタイルの計画案を応募するなど、昭和期の近代建築運動の主導者として活躍。ことに第二次世界大戦後の活動は目覚ましい。主要作に日本相互銀行本店(1952)、神奈川県立音楽堂および図書館(1954)、世田谷(せたがや)区民会館(1957)、京都会館(1960)、東京文化会館(1961)、埼玉県立博物館(1971)、東京海上火災ビル(1974)など。59~62年日本建築家協会会長を務め、74年日本芸術院賞を受賞。
[天田起雄]
『足立光章他編『現代日本建築の源流 前川国男』(1984・プロセスアーキテクチュア)』▽『前川国男著『前川国男 コスモスと方法』(1975・南洋堂出版)』▽『前川国男・MID同人著『前川国男のディテール』(1979・彰国社)』
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…しかし同時にそのころ日本は第2次大戦に傾斜しつつあって,近代建築の造られる土壌は急速に衰えていく。戦時中の国粋的風潮のなかで近代化への情熱はひっそくし,わずかに前川国男が懸賞設計で時流に抵抗する姿勢を見せるにとどまった。 近代建築の発展と日本の風土のなかへの定着は第2次大戦後にもちこされる。…
… 日本でプレハブ建築が普及するようになったのは第2次世界大戦後で,戦後の復興期には大量の住宅を急速につくらねばならず,住宅生産におけるプレハブ技術の開発導入が盛んに行われた。戦争直後には前川国男の設計による木質パネル工法〈プレモス〉が実施され,ほかにも多くの試みがなされた。1955年には軽量鉄骨の製造が始まり,60年代にはいわゆる鉄骨形プレハブ住宅の量産化が本格化することになる。…
※「前川国男」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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