日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜口隆一」の意味・わかりやすい解説
浜口隆一
はまぐちりゅういち
(1916―1995)
建築評論家。東京生まれ。1938年(昭和13)東京帝国大学工学部建築学科卒業。同期に丹下健三、大江宏がおり、一級上の建築家生田勉(1912―1980)、詩人立原道造らとも親交をもった。大学院に籍を置きながら、前川国男建築設計事務所に入所。1941年に、後に日本の女性建築家の草分けとして知られることになる、濱田ミホ(1915―1988)と結婚する。
1944年、雑誌『新建築』に連載された「日本国民建築様式の問題」によって、文筆家としてのデビューを飾る。浜口は、西洋の建築が物質的なもの、構築的なものとして把握されてきたのに対し、日本では行為の側面から、空間的に建築をとらえてきたとして、両者の建築概念の「伝統」の相違を論じる。そのうえで、過去の建築の物質的な形態を模倣した「日本国民建築様式」は、むしろ西洋的なもの、明治以後のものであり、真に伝統を基調にするものではないと批判。そして日泰文化会館設計競技(1943)に提出された前川と丹下の案こそが「行為的」「空間的」な日本建築の伝統に根差すのだと主張した。同論文は、同時代の建築に新たな価値を与え、また、自明とされてきた「建築」概念が、西欧からの移植であることをあらわにした画期的な建築批評として高く評価される。
第二次世界大戦後、初めての著書『ヒューマニズムの建築』(1947)を執筆。人類の歴史はヒューマニズム(人間中心主義)の拡大であるという観点から、戦前期までの近代日本の建築の歩みを正道からの逸脱と断じ、機能主義にもとづいた「近代建築」を「ヒューマニズムの建築」とよんで、その史的必然性を説いた。明快な内容と平易な表現によって、戦後の建築界に大きな影響を与え、「近代建築」の解釈をめぐって活発な議論が戦わされた。
1947年(昭和22)から東京大学第二工学部講師、翌1948年同助教授。同時に建築ジャーナリズムの旗手として、旺盛な執筆活動を展開する。戦後の建築生産の復興とともに、近代建築の理論的考察から、個別の建築批評や海外動向の紹介へと対象の幅をひろげていった。1957年に東京大学助教授を辞職。以後の10年間が執筆の最盛期であり、毎月のように複数の雑誌に記事が掲載された。平易な表現によって同時代の建築潮流を紹介し、それに歴史的な意味づけを与える才能の一端は、唯一のまとまった建築評論集である『現代建築の断面』(1967)に見ることができる。
1950年代なかばから建築を越えたデザイン諸分野の連帯を志向し、1958年にはデザイナーの渡辺力(りき)(1911―2013)、柳宗理(やなぎそうり)(1915―2011)、松村勝男(1923―1991)とグッドデザイン・コミッティ(のちの日本デザイン・コミッティ)を結成。『デザイン・ポリシー』(共著、1964)など、デザイン論も著した。1965年に設立されたサイン・デザイン協会の顧問を務め、『日本サイン・デザイン年鑑』で、サイン環境の考察を行った。1967~1977年日本大学理工学部建築学科の教授として「建築ジャーナリズム研究室」を開設した。
1980年代以降の関心は、サイン学の再検討と地域主義の問題にあった。1989年(平成1)に日本サイン学会を発足させ、初代会長に就任した。同年静岡県掛川市に移住し、地域に根差した多彩な活動を展開。「新しい機能主義」を説く『ヒューマニズムの建築・再論』(1994)は、こうした取り組みを総合するものとして構想された。
[倉方俊輔]
『『浜口隆一評論集1 現代建築の断面』(1967・近代建築社)』▽『『ヒューマニズムの建築・再論――地域主義の時代に』(1994・建築家会館)』▽『『ヒューマニズムの建築』(1995・建築ジャーナル)』▽『浜口隆一著・浜口隆一の本刊行会編『市民社会のデザイン――浜口隆一評論集』(1998・而立書房)』▽『浜口隆一・中西元男著『デザイン・ポリシー――企業イメージの形成』(1964・美術出版社)』