日本大百科全書(ニッポニカ) 「前田利太」の意味・わかりやすい解説
前田利太
まえだとしおき
生没年不詳。安土桃山時代の武将。通称は宗兵衛(そうべえ)、慶次(けいじ)、慶次郎。啓二郎と書いたものもある。諱(いみな)は利太、利卓、利治、利益、利貞が知られる。滝川一益(たきがわかずます)の甥(おい)、儀大夫益氏の子とされるが異説もある。尾張(おわり)荒子(あらこ)城(名古屋市中川区)の城主であった前田利久(まえだとしひさ)(利家(としいえ)の長兄)の養女(実父は利家三兄安勝(やすかつ))を娶(めと)り、その婿養子となった。はじめ、織田信長(おだのぶなが)、のちに養父利久とともに利家に仕え、能登(のと)国松尾村に居住したと伝える。1585年(天正13)には越中(えっちゅう)阿尾(あお)城(富山県氷見(ひみ)市)に入れ置かれた。1590年(天正18)の小田原征伐後に出奔したとされるが、この年7月、利家、利長(としなが)とともに奥州の検地に携わっているから、出奔はそのあとのことである。一説には、京都に至ったといわれ、1600年(慶長5)までには越後(えちご)上杉(うえすぎ)氏の家老直江兼続(なおえかねつぐ)の斡旋(あっせん)により上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕え2000石を領した(1000石ともいう)。1600年、出羽(でわ)最上(もがみ)氏の軍勢と争った。のち病気のため上杉氏を離れて大和(やまと)国に逃れ、1610年、73歳で没したとされる。かぶき者として知られ、そのイメージが現在に至るまで息づいているが、一方で、漢詩や連歌(れんが)などに秀でた、ひとかどの文化人であった。
[石野友康]
『『上杉家御年譜』3(1977・米沢温故会)』▽『前田家編輯部、前田育徳会編『加賀藩史料』第1編(1980・清文堂)』▽『金沢市史編さん委員会編『金沢市史』資料編3所収「本藩歴譜」(1999・金沢市)』