前田慧雲(読み)まえだえうん

精選版 日本国語大辞典 「前田慧雲」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐えうん【前田慧雲】

近代浄土真宗本願寺派の僧。仏教学者。伊勢国三重県桑名の人。明治二一年(一八八八大内青巒らの尊皇奉仏大同団に参加。高輪仏教大学・東洋大学龍谷大学学長を務める。「大日本続蔵経」の刊行を進めた。著「六合釈略決」「本願寺派学事史」「大乗仏教史論」など。安政四~昭和五年(一八五七‐一九三〇

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デジタル大辞泉 「前田慧雲」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐えうん〔まへだヱウン〕【前田慧雲】

[1857~1930]仏教学者。三重の生まれ。東洋大学・竜谷大学の学長を勤める。「大日本続蔵経」を刊行した。著「本願寺派学事史」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「前田慧雲」の意味・わかりやすい解説

前田慧雲
まえだえうん
(1857―1930)

明治・大正期の仏教学者。三重県桑名の真宗本願寺派の末寺に生まれる。西本願寺の設立した京都西山教授校に学び、三井寺(みいでら)(園城寺)の大宝律師(1804―1884)から古典的な仏教学を習得した。1880年(明治13)父の死によりいったん帰郷したが、ふたたび京都へ上り、さらに九州の松島善譲(まつしまぜんじょう)(1806―1886)のもとで浄土真宗の歴史を研究した。1888年には東京に上り、大内青巒(おおうちせいらん)らの尊皇奉仏大同団に加わり、一時期政治活動に従った。1903年(明治36)『大乗仏教史論』により文学博士学位を受ける。東京帝国大学などの講師、東洋大学・龍谷(りゅうこく)大学などの学長を歴任。また『大日本続蔵経』の刊行にも尽力した。著述はほかに『本願寺派学事史』『天台宗綱要』などがある。伝統的な仏教学を近代に生かした学風で知られる。

[末木文美士 2017年10月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「前田慧雲」の意味・わかりやすい解説

前田慧雲 (まえだえうん)
生没年:1857-1930(安政4-昭和5)

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の学僧伊勢国(三重県)桑名の同派西福寺の生れ。号は含潤道人,止舟。少年時代に桑名藩校興譲館の大賀旭川,尾張藩学頭佐藤牧山らに漢籍,詩文を学び,19歳で西本願寺設立の西山教授校に入り,のち山命により比叡山で天台学を,また九州の松島善譲に宗学を学んだ。1888年上京して大内青巒らの尊皇奉仏大同団の幹部となり,91年本山新法主光瑞のために学問所主事となった。のち98年同派大学林副総理,1900年東京帝国大学文科大学講師,06年東洋大学長,22年竜谷大学長を歴任した。この間,文学博士,同派勧学職を受け,《大日本続蔵経》の編集長を務めて完成させた。《前田慧雲全集》8巻がある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前田慧雲」の解説

前田慧雲 まえだ-えうん

1857-1930 明治-昭和時代前期の僧,仏教学者。
安政4年1月14日生まれ。西本願寺西山学校でまなび,明治24年浄土真宗本願寺派法主大谷光瑞(こうずい)の学問所主事となる。編集長として「大日本続蔵経」の刊行につくす。38年勧学。高輪仏教大,東洋大,竜谷大の学長をつとめた。昭和5年4月29日死去。74歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。著作に「大乗仏教史論」「本願寺派学事史」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前田慧雲」の意味・わかりやすい解説

前田慧雲
まえだえうん

[生]安政2(1855).1.14. 桑名
[没]1930.4.29. 東京
真宗大谷派の学僧。含潤,止舟斎と号す。 1888年に尊王奉仏を唱え,新法主学問所の主事として活躍。のち東京大学講師,高輪仏教,東洋,竜谷各大学の学長を歴任。『大日本続蔵経』を刊行した。主著『大乗仏教史論』『仏教今古変一斑』『天台宗綱要』『仏教人生観』『仏教思想講話』。

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