アルゼンチン、チリ、パラグアイとともにサザンコーン(スペイン語でコノスルCono Sur)とよばれる南アメリカ南部に位置する大西洋岸の小国である。面積は17万6215平方キロメートル。北側はブラジルに、南側および西側はラ・プラタ川とその支流であるウルグアイ川を境にアルゼンチンと接しているため、歴史的にも政治・経済的にも両国の影響を多く受けてきた。正式国名はウルグアイ東方共和国República Oriental del Uruguayである。「ウルグアイ」は同国の先住民のひとつであるグアラニーのことばで「鳥の飛来する川」を意味するといわれ、「東方」は植民地時代にウルグアイ川の東側に位置することで「バンダ・オリエンタル」とよばれていたことに由来する。ウルグアイ人は「東方人」(orientales)と称することもある。人口は331万4000(2006推計)、334万(2009推計)、公用語はスペイン語である。
[堀坂浩太郎]
地勢的には、ブラジル南部の台地とアルゼンチンの大平原パンパの延長線上にあるため、国土全体がなだらかな丘陵地帯を形成する。高いところでも標高500メートル程度で、国土の大半が農牧業に適する。南緯30度から35度に位置し、温帯性気候である。冬(6~8月)の平均気温は12~13℃、夏(12~2月)は22~23℃と穏やかで、降水量は年600~1200ミリメートル。ただ、冬の暖かい北風が、パンパから吹いてくる南西の冷たい風パンペロに突然変わるというように天候の急変がみられる。
ウルグアイには、ブラジル、パラグアイにも広がる世界有数の地下水脈グアラニー帯水層があり、世界的に水の重要度が増すなかで秘められた天然資源となっている。
首都はモンテビデオ。同市を含めて主要都市(サルト、パイサンドゥ等)はラ・プラタ川とウルグアイ川に沿って展開する。首都への人口集中度が高く(約140万人)、他の都市は多くても10万人規模の人口である。1680年にポルトガルの貿易港として建設された最古の町コロニア・デル・サクラメントはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、大西洋に面したプンタ・デル・エステは南米有数のリゾート地である。多角的貿易交渉ウルグアイ・ラウンドの閣僚会議(1986)が開催されるなど、国際会議の舞台にもなってきた。
人種構成は、ヨーロッパ系住民(白人)が人口の90%を占める。先住民(チャルア、グアラニー)およびアフリカ系住民(黒人)はごく少数で、残りはヨーロッパ系住民と先住民、アフリカ系住民との混血からなるメスティソやムラートである。
[堀坂浩太郎]
19世紀末までのウルグアイの歴史は、旧宗主国であったスペインのほか、ポルトガルやイギリス、フランスなどの列強によって干渉を受けると同時に、小国ゆえにブラジルやアルゼンチンの勢力圏拡大抗争に振り回された。1516年にスペイン人が到達し、1776年に同国のリオ・デ・ラ・プラタ副王領に編入された。独立運動の混乱に乗じてポルトガルが侵略しブラジルの一部(名称シスプラティーナ)とされたが、アルゼンチンの支援とイギリスの調停によってブラジルとの講和が成立し1828年に独立した。1864~1870年には、アルゼンチン、ブラジルと三国同盟を結成し、パラグアイ戦争(アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの三国同盟軍とパラグアイとの領土をめぐる戦争。パラグアイの敗戦となり、パラグアイは領土の約4分の1を失った)に臨んだ。
19世紀後半以降、羊毛生産のほか小麦、肉牛の生産でヨーロッパの食糧庫的存在として注目されるようになり、イタリアおよびスペインからの移民が急増した。
20世紀に入ると、政治の民主化、社会保障制度の整備が進み、教育水準も高かったため「南米のスイス」と称された。しかしながら伝統産業(農林畜産物)の輸出に依存するあまり産業の近代化が進まず、1929年の世界大恐慌や第二次世界大戦終了(1945)後の農産品不況の打撃を受けた。経済不振のなかで1960年代に入ると、都市ゲリラ「ツパマロス」による要人誘拐や暗殺、外資襲撃が横行し、その鎮圧で実績をあげた軍部が1973年2月の政変で政治権力を掌握した。1985年3月の民政移管までの憲法停止下で12年間弱、軍人が4代の大統領職に就き、軍部独裁による権威主義体制が続いた。
[堀坂浩太郎]
政体は共和制で、国民による直接選挙で選出される大統領が行政権を掌握する大統領制である。議会は上院(31議席)、下院(99議席)の二院制で選挙は比例代表制。大統領、議員ともに任期は5年で大統領は連続再選禁止である。司法は、簡易、第一審、控訴、最高の各裁判所のほか、軍事、行政裁判所で構成される。地方政府はモンテビデオ特別県を含め19県からなる。
ウルグアイは、政党活動が大幅に制限された軍事政権期(1973~1985年)を除き、独立以来21世紀に入るまで、コロラド党およびブランコ党(正式名称は国民党)の二大政党制が機能した南米では数少ない国のひとつである。前者は都市部や労働組合を基盤に革新的・世俗的で、後者は農村部が基盤で保守的でカトリックの影響が強いとみなされてきた。人口が集中するモンテビデオとその他の地域という同国の社会特性を反映した結果である。1985年の民政復帰後、最初の大統領がコロラド党のフリオ・サンギネティJulio Sanguinettiで、その後はブランコ党のルイス・ラカジェLuis Lacalle、コロラド党のサンギネティ(2度目)、同ホルヘ・バジェJorge Batlleと続いた。
二大政党制が崩れたのが、進歩会議・拡大戦線(EPFA)の元モンテビデオ特別県知事タバレ・バスケスTabaré Vázquezが大統領に選出された2004年10月選挙であった(就任は2005年3月)。初の左派政権の誕生で、続く2009年の大統領選でも軍政時代にゲリラ闘争に従事した拡大戦線(FA)の元農牧・水産相ホセ・ムヒカJosé Mujicaが選出された(就任は2010年3月)。
外交面では、ブラジルとアルゼンチンの南米二大国に挟まれ「緩衝国」的存在である。1970年にラ・プラタ川を共有する5か国間でラ・プラタ流域条約を締結し、1995年1月には近隣4か国(アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル)でメルコスール(南米南部共同市場)を結成した。その一方でアメリカとの間で貿易投資枠組み協定(2007)を締結している。国連の平和維持活動(PKO)にも積極的である。
[堀坂浩太郎]
輸出財(2009年、54億ドル)の7割を農林畜産物が占めるなど、典型的な農業国である。GDP(国内総生産)は2009年で360億ドル(世銀統計)と小規模だが、国民1人当りGNI(国民総所得)は9360ドルと高位中所得国に含まれる。温暖な気候と規制緩和がプラスとなって、保養地および金融センターとして南米南部のなかで特異な地位を占めている。近年は、水深の深い港湾や関税・法人税免除等の税制恩典がある貿易フリーゾーン(FTZ)の存在によって、メルコスール地域の貿易中継基地としても浮上している。
1999年から2002年にかけ、ブラジル、アルゼンチンの経済危機の余波を受け、金融制度崩壊の瀬戸際に立たされたが、IMF(国際通貨基金)等の支援を受けて乗り切り、経済諸改革を推し進めた。2004~2008年は年率約8%の成長を達成し、2009年の世界金融危機の影響は軽微にとどまった。左派政権下でもマクロ経済安定重視の政策スタンスを堅持し、メルコスール市場を視野に入れた外資の進出がみられる。輸出の28%(2009)がメルコスール諸国向けで、そのほかにEU15%、中国4%、アメリカ3%と続く。通貨はペソである。
モンテビデオには、ラテンアメリカ統合連合(ALADI。中南米12か国が加盟する貿易統合組織)やメルコスールの事務局がある。
[堀坂浩太郎]
学校教育は小・中・高の六・三・三制をとっており、中学校までが義務教育である。1995年からは4歳児以降就学前教育の義務化の動きが始まり、小学校の生徒全員にパソコン配布を目標としたITリテラシー教育に力を入れている。大学は国立の共和国大学のほかカトリック大学など私立5校からなる。国連が集計する人間開発指数(HDI)では総合で世界50位(2007)にランクされるが、教育は30位で、南米ではトップである。
ウルグアイは、1930年に行われたサッカーのワールドカップ第1回開催国かつ最初の優勝国として知られる。1950年に二度目の優勝を果たしたほか、オリンピックにおいてもサッカー競技で二度優勝している。
音楽では、アルゼンチンとならびタンゴやその前身のミロンガが代表的で、モンテビデオに移住したイタリア系都市労働者の影響がみられる。またアフリカ系住民がもたらした打楽器中心のカンドンベやパンパの牧童ガウチョの抒情的な民俗舞踊ペリコンなどがある。
憲法により信仰の自由が保障されており、政教分離が確立しているが、宗教ではカトリック教徒が人口の過半を占めている。
[堀坂浩太郎]
日本との外交関係は1921年(大正10)9月に樹立され、1942年からの第2次世界大戦による国交断交期間を経て、1952年(昭和27)12月に復交した。2008年9月に日本人のウルグアイ移住100周年記念式典が行われ高円宮妃殿下が訪問しているが、日系人の数は1000人未満と周辺国に比べて極めて少ない。企業進出では、河川航行用の貨物船建造や稲作に従事する日本企業の存在が知られていたが、21世紀に入りメルコスールを視野に入れた自動車部品製造や物流拠点開設に従事する日本企業が進出している。
2009年(平成21)のバスケス大統領訪日時に、日本政府がウルグアイ国内に太陽光発電装置を整備するクリーンエネルギー導入計画への無償資金協力を約束するなど、政府開発援助(ODA)が両国間の関係形成で重要な役割をしている。1989年に両国政府間で技術協力協定が締結され、2001年、2007年にウルグアイ政府が各300億円の円建て私募債(サムライ債)を発行している。
[堀坂浩太郎]
『中川文雄・松下洋・遅野井茂雄著『ラテンアメリカ現代史Ⅱ』(1985・山川出版社)』▽『ラテン・アメリカ協会編『ラテン・アメリカ事典』(1996・ラテン・アメリカ協会)』▽『田辺裕監修『世界の地理5――南アメリカ』(1997・朝倉書店)』▽『大貫良夫・落合一泰・国本伊代・恒川恵市・福嶋正徳・松下洋監修『ラテンアメリカを知る事典』(1999・平凡社)』▽『井上忠恕・後藤信男著『ビバ!ウルグァイ ワールドカップを制した人口300万人の小国』(2003・STEP)』
基本情報
正式名称=ウルグアイ東方共和国República Oriental del Uruguay
面積=17万6215km2
人口(2010)=336万人
首都=モンテビデオMontevideo(日本との時差=-12時間)
主要言語=スペイン語
通貨=ウルグアイ・ペソUruguayan Peso
南アメリカの二大国であるアルゼンチンとブラジルに挟まれた小国で,面積,人口ともに南アメリカのスペイン系諸国のなかでは最も小さい。しかしモンテビデオ市を中心とする首都圏への人口集中度(約45%)は南アメリカ随一である。ウルグアイ川の東岸に位置することから,スペインの植民地時代にはバンダ・オリエンタル(東岸の意)と呼ばれた。
地形的にはブラジル南部の台地とアルゼンチンのパンパとの移行地帯に属し,ブラジル国境からアエド,グランデ,サンタ・アナの丘陵が延びている。ただし,いずれの丘陵も標高が600mを超すことはなく,全般的になだらかな丘陵地帯で,農牧業の適地が国土の87.6%にも達し,ラテン・アメリカの平均値23.8%を大きく上回っている。ウルグアイとは,グアラニ語で〈貝の川〉あるいは〈ウル鳥の飛び立つ川〉を意味したともいわれるが,ネグロ川やサンタルシア川,ケグアイ川などのほか,中央部のネグラ湖やブラジルとの国境沿いのネリン湖など,河川や湖沼が多い。南緯30°から35°の温帯圏に属し,気候は一般に温暖でモンテビデオ市では夏季の平均気温が25℃,冬季が12℃といたってしのぎやすい。適当な降雨にも恵まれるが,干ばつや洪水に見舞われることもある。首都の東方145kmにあるプンタ・デル・エステ市は南アメリカ有数の避暑地として知られ,数々の国際会議の舞台となってきた。
国民の9割以上は白人系で,南アメリカではアルゼンチンに次いで白人の比率が高い。これはアルゼンチンと同様に,19世紀後半以降,イタリアをはじめとするヨーロッパ諸国から大量の移民が流入したことに由来するものであり,1908年全人口に占める外国人の比率は17.4%にも達していた。インディオ人口は皆無に近く,黒人人口もムラート(黒人と白人の混血)を合わせて2%程度と推定される。言語はスペイン語。
農牧国ではあるが,都市人口の比率が高く,1996年の推定では89%であった。多くのラテン・アメリカ諸国と同様に,大地主を頂点とする階層的社会構造を有し,1966年には土地所有者全体のわずか1.5%が生産適地の35.2%を占めていた。ただし,都市部を中心に弁護士,医者,ホワイトカラー,官公吏などからなる層の厚い中産階級(全人口の約5割ともいう)が存在するので,上下の格差は一般のラテン・アメリカ諸国ほど顕著ではない。
文化・教育水準も高く,識字率は95%に達している。宗教の面ではカトリシズムが圧倒的に優勢だが,憲法上信教の自由と政教分離が確立されており,20世紀初頭には他のラテン・アメリカに先がけて離婚法が成立している。カトリシズムのほかにはユダヤ教やプロテスタンティズムがあり,後者の中ではメソディストが有力である。
20世紀のラテン・アメリカのなかで最も民主的で政治的にも安定した国家と見なされていたが,1973年に軍部の圧力のもとに議会が閉鎖されたことを機に,事実上の軍政へ移行した。85年まで続いたこの軍政は,労働運動を弾圧したほか,左派政党,さらには,コロラド党とブランコ党という19世紀以来の伝統的政党も厳しく取り締まり,その一方ではテクノクラートを登用して経済開発を図った。このように,国民の政治参加を厳しく抑制しながら,テクノクラートによる経済発展を志向した軍政は官僚主義的権威主義体制と呼ばれているが,この時期のウルグアイはその典型例といってよいだろう。しかしながら,民主主義的伝統を根強く堅持してきた歴史があるだけに,厳しい軍政に対しては当初から批判が絶えず,1980年11月に軍部の政治介入を恒久化するプランが国民投票にかけられた際にも,国民の57%が反対票を投じたほどだった。加えて,経済政策の面でも軍政は十分な成果を上げることができなかったことも国民の反軍感情を募らせた。そして,80年代に入って,南米諸国に民主化の波が押し寄せてくるなかで,84年8月に,軍部と諸政党(ブランコ党は不参加)の代表が海軍クラブにおける協議で民政移管に合意し,同年11月に実施された民政移管のための大統領選ではコロラド党のサンギネッティが勝利し,翌年3月大統領に就任した。
スペインの植民地時代から牧畜業と農業を中心とする経済構造を有し,1828年の独立後も経済構造に大きな変化はなかった。20世紀に入ってからは,とくに1930年代以降は工業化が目ざされたが,それでも,第2次世界大戦後も,ながらく輸出面では牧畜業が依然として圧倒的に優位を誇り,1955年から70年には羊毛と牛肉が,全輸出額の75%から80%近くを占めていた。その後,1970年代の軍政時代に靴,皮革,衣服,繊維などの非伝統的工業製品の輸出が増大し,なかでも73年から77年には約400%も増大した。この結果,これらの輸出品が全輸出に占める割合も上昇し,1980年代から90年代の半ばにかけては30%から25%程度の比重を占めている。これらの軽工業品と並んで,近年,化学工業製品や機械・輸送機器の輸出も伸びており,これらの輸出品だけで総輸出額の10%を超えるに至っている。94年には機械・輸送機器の輸出増加により,化学と機械・輸送機器を合計した輸出額は全輸出の17.0%にまで増加したが,95年には11.6%に低下した。このように工業製品輸出の増大にともない,工業部門の国民所得寄与率も,全体に占める工業部門の比率も,1990年代には30%近くに達している。
しかしながら,こうした工業部門の発展にもかかわらず,国の経済の根幹はなお農牧業にある。国民所得全体のなかでの農牧業部門の寄与率は近年は10%ほどだが,輸出に占める比率は依然高く,96年には食品と農業原材料で総輸出の59.5%にも達している。
1516年スペイン人のJ.D.deソリスがこの地を初めて探検し,1494年のトルデシーリャス条約に基づきスペイン領となった。植民地時代にバンダ・オリエンタルと呼ばれたこの地域は貴金属に乏しく長らく放置されてきたが,1680年にポルトガルがコロニア・ド・サクラメント(現,コロニア市)を商業活動の拠点として建設して以来,この地域をめぐって両国の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。1726年スペインはモンテビデオ市を建設し,76年リオ・デ・ラ・プラタ副王領の設置に伴ってバンダ・オリエンタルはその一部となり,翌年のサン・イルデフォンソ条約によりスペインの領有が確認された。
1810年ブエノス・アイレス市で独立運動が開始されると,それに呼応してバンダ・オリエンタル農村部の有力者アルティガスが蜂起し,14年までに王党派を追放することに成功した。しかしながら,独立後の国造りをめぐって旧リオ・デ・ラ・プラタ副王領全体の連邦制を主張したアルティガスは,中央集権制に固執するブエノス・アイレス市と鋭く対立し,この対立に乗じたポルトガルはバンダ・オリエンタルを侵略して21年7月シスプラティーナ州として併合した。翌22年9月ブラジルの独立に伴ってその一州となるが,25年にアルゼンチンの支援を受けた独立運動が勃発するに及んで翌年ブラジルとアルゼンチンは戦争に突入し,ようやく28年バンダ・オリエンタルの独立を承認することで講和が実現された。30年には憲法が制定され,ここに二大国に挟まれた緩衝国が誕生するが,両国からさまざまな干渉を受けたため政情は不安定をきわめた。なかでも1830年代にはじまるコロラド党とブランコ党の対立は,アルゼンチンの内紛とからんで複雑な様相を呈し,戦争(たとえば1839-51年の〈大戦争〉)や流血の抗争をたびたび誘発した。
こうした国内の混乱に終止符を打ち,国政に大きな転機をもたらしたのがコロラド党のバッジェ・イ・オルドーニェスだった。2期に及んだ大統領時代(1903-07,1911-15)を通じてバッジェは一部の鉄道や金融・保険業を国有化して経済的民族主義の路線を定着させ,福祉政策の拡充による弱者の救済を図り,また労働法を制定して労働者の保護に努めた。さらに大統領個人への権力の集中に反対して反対党も参加する複数行政制を提唱し,その計画は1918-33年には大統領と並立する国家行政委員会が設けられたことで部分的に具体化された。さらに52年には大統領制を廃止し,国家政治委員会を唯一の行政府とすることで,バッジェの主張したような複数行政制度が発足した。
しかしながら,この制度の発足後まもなく経済的停滞が顕著となり,60年代にはゲリラ組織ツパマロスの活動が激化し,政治的緊張が高まった。こうしたなかで,67年には大統領制が復活し,さらにツパマロスの鎮圧に主導的役割を果たした軍部が73年には政治の実権を事実上掌握し,ウルグアイが誇った民主体制は一時期頓挫した。しかし85年には民政移管が実現し,民政移管後の最初の大統領となったサンギネッティは,GATTの貿易障壁引下げのための国際会議をウルグアイに招致する(ウルグアイ・ラウンド)など,国際社会における自国の地位の向上を目ざした。91年に発足したメルコスールの事務局がモンテビデオに設置されているのも,同様な趣旨に基づくものといえよう。
執筆者:松下 洋
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