日本の城がわかる事典 「岩殿山城」の解説 いわどのやまじょう【岩殿山城】 山梨県大月市にあった山城(やまじろ)。同県指定史跡。JR大月駅からよく見える独立峰の岩山・岩殿山(標高634m)の山上に築かれていた。岩殿山は急峻な岩山で東・南・西の3面が断崖絶壁、北側も急峻な地形であるために、当時の東国の城郭の中では屈指の堅固さで知られていた城である。戦国時代の甲斐の有力国人で、武田氏に重臣として任えた小山田氏の城。小山田氏は甲斐守護の武田氏に敵対していたが、1509年(永正6)に、郡内(今日の都留市・大月市周辺)を領有する半独立の領主の地位を保ったまま武田氏の傘下に入り、武田氏から親族並みの扱いを受けて重用されて、信玄の時代には武田二十四将の一員となる。岩殿山城は武田信虎の時代の1532年(天文1)に、小山田信有により築城されたといわれるが、築城者や築城時期はくわしくわかっていない。また、『甲斐国志』や『甲陽軍艦』には、小山田氏が居城としていたと記され、『勝山記』や『妙法寺記』によれば、1565年(永禄8)ごろに家督を相続した小山田信茂(信有の孫)が谷村(やむら)城(谷村館)(都留市)から岩殿山城に居城を移したとされるが、本城(居城)は、信茂の時代にも引き続き谷村城で、岩殿山城はその出城だったとする説もある。また、この岩殿山には9世紀末ごろに天台宗の円通寺が創建され、13世紀には天台系の修験道場として栄えたが、16世紀ごろには武田・小山田両氏の支配地となった。以来、岩殿山城は国境に近い位置にあることから甲斐からの侵攻拠点として、また武蔵の扇谷上杉氏、相模の北条氏、駿河の今川氏に対する防衛拠点として重要な城となった。1582年(天正10)、織田信長と徳川家康の連合軍が甲斐に侵攻し、間もなく武田氏は滅亡した。このとき小山田信茂は織田方へ寝返り、新府城(韮崎市)から岩殿山城へ落ち延びようとした武田勝頼の郡内入りを阻止した。進退に窮した勝頼は引き返したが、天目山(甲州市)に追い詰められて自害した。こののち、信茂は信長に帰参を求めたが不忠者として処刑されたといわれている。武田・小山田氏の滅亡後、同城は織田信長麾下の川尻秀隆の治める城となったが、同年の本能寺の変の信長の死去後に、秀隆は一揆の混乱の中で討ち死にし、甲斐をめぐって北条氏直と争った徳川家康の城となった。その後、一時期、甲斐は豊臣氏の所領となったが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、再び、徳川氏が領有した。江戸城を本拠とした徳川家康は危急の際の甲斐への退去を想定していたといわれ、そのため岩殿山城も要塞として存続させたが、17世紀初めに廃城となった。同城廃城後も円通寺はそのまま存続したが、明治政府の神仏分離政策により廃寺となった。現在、城跡はふれあい公園として整備され、山頂には本丸跡が、その下には二の丸、三の丸、蔵屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸などの跡が残っているほか、空濠、井水、帯郭、烽火台、馬場跡がある。また、城跡には内部が資料館となっている模擬天守が建っているほか、プラネタリウムなどがある。JR中央本線大月駅から徒歩約25分、または同駅からバスでゆりヶ丘入口下車(城山入口まで)。本丸のある山頂まではここから徒歩約20~30分。◇岩殿城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報