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勝本勘三郎 かつもとかんざぶろう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

勝本勘三郎
かつもとかんざぶろう

[生]慶応2(1866).12.12. 津
[没]1923.12.18. 京都
日本における刑法学の先駆者の一人。古賀廉造とともに近代学派の刑法理論導入に努力した。主著『刑法析義』 (2巻,1899~1900) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

勝本勘三郎 かつもと-かんざぶろう

1867*-1923 明治-大正時代の法学者。
慶応2年12月12日生まれ。東京地方裁判所検事などをつとめ,明治35年京都帝大教授となって刑法,刑事訴訟法を担当。のち弁護士を開業。岡田朝太郎とともに近代的刑法学の基礎をきずいた。大正12年12月17日死去。58歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。帝国大学卒。旧姓は監野。著作に「刑法析義各論」「刑法要論総則」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

勝本勘三郎

没年:大正12.12.17(1923)
生年:慶応1.12.12(1866.1.28)
明治大正期の刑法学者。三重県出身。父は監野忠次郎。イタリアの犯罪学者ロンブローゾの影響下で近代学派の刑法理論を体系化した。「武者修行者のなれの果て」といわれた父に早く生別し,母に育てられた。司法省法律学校給費生時代の明治18(1885)年,同校が東大に併合されて給費が断たれ苦学した。26年卒,一時検事となったのち,32年京都帝大助教授,35年教授。その間ヨーロッパに留学し,短期間ロンブローゾに師事。犯罪を必然の産物,刑罰を社会防衛とする近代学派の主張を基調とする刑法理論を展開した。大正3(1914)年弁護士となり,青木徹二の不敬罪事件(1920)などを弁護。勝本イコール刑法,勝本から刑法を除けば何も残らないといわれるほど,学問いちずの生涯であった。<著作>『刑法析義』

(長尾龍一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

勝本勘三郎
かつもとかんざぶろう
(1866―1923)

刑法学者。慶応2年に現在の三重県津市生まれる。東京帝国大学法科大学卒業後一時検事となったが、1899年(明治32)に東京帝国大学法科大学講師に任じられ、1900年には京都帝国大学法科大学助教授、1902年(明治35)に同教授となり、1914年(大正3)に退職するまで刑法講座を担当した。その後、大阪弁護士会所属の弁護士となり、その会長なども務めた。
 京都帝国大学法科大学赴任後、ドイツ、フランス、イタリアに留学して西欧の刑法学を学び、帰国後、新派(近代学派・実証学派)の刑法理論を日本に紹介した。勝本自身は、刑法の犯罪予防的機能を強調し、目的刑主義を採用するなど、新派の強い影響を受けながらも、刑法解釈論のレベルでは、むしろ旧派的な客観主義の立場から、総論・各論に関する精緻(せいち)な理論を展開していた。主要な著書には『刑法折義各論』上下(1900)、『刑法要論総則』(1913)、『刑法の理論及び政策』(1925)などがある。[名和鐵郎]

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