新旧両派の争い(読み)しんきゅうりょうはのあらそい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新旧両派の争い」の意味・わかりやすい解説

新旧両派の争い
しんきゅうりょうはのあらそい

19世紀後半から20世紀の初めにかけて、おもにドイツを中心として、新派(近代学派・実証学派)と旧派(古典学派)との間で展開された刑法理論全般にわたる論争。「刑法における学派の争い」または単に「学派の争い」ともいう。とくに、20世紀初頭のドイツにおける、新派を代表するリストと旧派を代表するビルクマイヤーとの論争で頂点に達した。この論争はわが国にも及び、とくに大正期から昭和初期にかけて、勝本勘三郎(かんざぶろう)、牧野英一、木村亀二(かめじ)らが新派の立場から、また、大場茂馬(しげま)、小野清一郎滝川幸辰(ゆきとき)らが旧派の立場から、激しい論争を展開した。

[名和鐵郎]

近代刑法学の成立(前期旧派)

17世紀初頭以降の西ヨーロッパでは、多くの啓蒙(けいもう)思想家(ロック、モンテスキューボルテールルソーなど)が、社会契約説をはじめ、その人権思想や合理主義思想を背景として、国家刑罰権の根拠をはじめ刑法思想や刑法理論を展開していた。これらの啓蒙思想の影響のもとに、近代的な刑法理論を詳細に展開したのが、「近代刑法学の始祖」とよばれるイタリアベッカリーアであり、「近代刑法学の父」と評されるドイツのフォイエルバハであった。ベッカリーアは、不朽の名著『犯罪と刑罰』(1764)のなかで、社会契約説や三権分立論により国家刑罰権の根拠と限界を示すとともに、罪刑の法定と明確化の必要性を強調した。さらに、彼は近代合理主義を背景として、犯罪の重さは、それによる社会の損害によって量られるべきであるという客観主義を採用し、刑罰の目的も、犯人に対する将来的な犯罪の予防と社会の人々に対する警告にあるという目的刑主義の立場にたっていた(なお、彼は死刑廃止論者であった)。

 フォイエルバハは、「カント学徒」と称されるように、カントの法治国思想やそれを前提とする法と道徳を峻別(しゅんべつ)する考え方の決定的な影響のもとに、国家刑罰権が市民の権利を保障するための制度であるから、犯罪は市民の権利を侵害する行為でなければならない、と主張した。これが権利侵害説であり、この考え方によれば、権利侵害をもたらすか否かという客観的概念により犯罪の成否が判断されることになる(客観主義)。また、フォイエルバハは、功利的な合理主義を徹底して、人間は快を求め、不快を避けるから、犯罪によって得られる快よりも、刑罰による苦痛のほうが大きいことを法律で示しておけば、人は犯罪を犯さなくなる、という心理的強制による一般予防論を展開した(心理強制説)。このような考え方に基づき、「法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰なし」Nullum crimen sine lege, nulla poena sine legeという標語により、罪刑法定主義を宣言した。

 以上のように、ベッカリーアとフォイエルバハは、その論拠づけこそ異なるが、罪刑法定主義、客観主義、目的刑主義を採用する点では共通している。そして、彼らが、後述する後期旧派(旧派)が根幹とする罪刑法定主義・客観主義の立場にたっていた点において、従来、旧派に属するものと一般に考えられてきたのである。ただ、彼らが、近代啓蒙思想の影響のもとに、個人主義的自由主義とともに近代合理主義を基本的な立場としていたことが強調される必要がある。また、彼らが後期旧派と異なり、目的刑主義(相対主義ともよばれる)にたっていたことも注意する必要があろう。そこで、彼らの刑法学は、後期旧派と区別して、「前期旧派」とよばれるのである。

[名和鐵郎]

旧派刑法学(後期旧派)

前記のような近代刑法学は、カントからヘーゲルに至るドイツ観念論哲学、さらに「ヘーゲル学派」の台頭によって大きく変質させられた。思想的にいえば、個人主義的自由主義・合理主義から国家主義・権威主義への転換であったといえよう。まず、後期旧派に強い影響を与えたカントとヘーゲルの刑法理論、とくにその刑罰理論を概観しておこう。カントは、その人格主義と自由(意思)論を前提として、刑罰は他の目的のための手段として加えられるべきではなく、犯罪を犯したという理由だけで犯人に科されるべきであり(絶対主義とよばれる)、したがって、タリオ的な「同害報復」こそ刑罰の原理であると主張した(応報主義)。また、ヘーゲルは、1821年の『法の哲学』において、フォイエルバハの心理強制説を「(人を)犬のように扱うもの」と批判しつつ、その弁証法的立場から、犯罪は単に権利侵害ではなく、客観的法自体の侵害であり、否定であるから、刑罰によってこの侵害が無価値であることを示し、さらに否定することによって法の侵害は止揚され、法の実在性が回復されると主張した(絶対主義)。そして、彼は、刑罰はカントのように単なる同害報復ではなく、「侵害された価値に応じる相等性」をもつべきことを強調した(応報主義)。このように、カントを経てヘーゲルによって、絶対主義と応報主義を基本とする刑罰理論が完成されることとなった。

 ところで、ヘーゲルの死後、ヘーゲル哲学の流れは、自由主義的・進歩的な「ヘーゲル左派」と、国家主義的・権威主義的な「ヘーゲル右派」とに分裂していくが、プロイセンを中心とする強力な統一国家を実現する動きが政治的に強まるなかで、これを推進するヘーゲル右派が圧倒的優位にたったのを背景として、この派に属するケストリンアベックなどが、国家刑罰権を絶対化するような応報刑論へと導いていった。このような国家主義を志向する理論を受け継ぎ、後期旧派の刑法理論を全面的に展開したのが、ビンディングであった。ビンディングは、フォイエルバハ以来の権利侵害説を強く批判し、犯罪は国民の権利の侵害ではなく、国家の権利の侵害であり、国家の権利の総体が「規範」であるから、犯罪は、結局、規範違反である、と主張した(規範説とよばれる)。そして、彼は、刑罰論においては、ヘーゲルの応報刑論を継承して、刑罰は、規範の否定である犯罪をさらに否定することによって、法の権威は回復される、と主張した。このように、ビンディングの刑法理論は、犯罪論における規範主義、刑罰論における応報主義により特徴づけられるが、この特徴こそ、後期旧派の刑法学の基本的性格を示すものである。

[名和鐵郎]

新派刑法学

19世紀後半の西ヨーロッパでは、資本主義が独占段階に入り、その社会経済的な矛盾や不合理がさまざまな社会問題を発生させることとなった。都市に大量に流入した労働者が、労働の機会や能力を失う場合には、浮浪者、売春婦、犯罪少年として都市に群がり、犯罪の増加と累犯化をもたらした。そのために、社会政策の必要が説かれ、資本制社会そのものを変革しようとする社会主義思想が登場することになった。他方では、科学や技術の発達も目覚ましく、科学的・実証的な考え方があらゆる学問領域に取り入れられていった。このような時代背景のもとに刑法学に登場したのが、新派刑法学である。

 まず、新派刑法学の先駆をなしたのが、イタリアのロンブローゾであった。彼は、医者の立場から、犯罪者の身体的・精神的特徴を分析し、1876年に公表した『犯罪者論』のなかで、犯罪者の特徴は隔世遺伝により受け継がれるという生来的犯罪者説を提唱した。このような実証的方法を継承しつつ、犯罪の要因は人類学的要因のほか物理的要因と社会的要因とがあると主張したのが、同じくイタリアのフェリーである。彼は、1884年の『犯罪社会学』という著書のなかで、人間の自由意思を「まったくの幻想」であると批判するとともに、自由意思を前提とする旧派が主張する道義的責任や刑罰にかえて、犯罪は必然的なものであるという決定論に立脚しつつも、犯罪者も社会の一員である以上、社会は犯罪者の危険性から防衛される必要があり、犯罪者もこの社会防衛処分としての「制裁」を受忍すべき地位にある、と主張した。このようなフェリーによる自由意思否定論または決定論を前提とする社会的責任論には、マルクス主義の影響がみられ、彼の作成した1921年の「イタリア刑法予備草案」(フェリー草案)は、1926年のソビエト・ロシア刑法に継承され、発展させられていった(なお、晩年のフェリーは、ムッソリーニのファシズムに賛同していった)。

 このようなイタリア学派とよばれるロンブローゾやフェリーの実証主義的刑法学に強い影響を受けつつ、新派刑法学を全面的に展開したのが、ドイツのリストであった。同時に、リストは、イェーリングの社会功利主義・目的思想に強く賛同する立場から、フォイエルバハの権利侵害説をはじめとする刑法理論を継承すべきことを主張しつつ、ビンディングに代表される当時の支配的な旧派刑法学(後期旧派)、とくにその規範主義と応報刑主義を強く批判した。彼は、1882年に「刑法における目的思想」(マールブルク綱領とよばれる)のなかで、犯罪とは法益の侵害であり、刑罰は原始的・本能的な応報観によるのではなく、必要性・合目的性を有しなければならないとともに、反社会性の強弱に応じた犯罪者の分類により、社会防衛の効果をあげるべきである、と主張した。このような立場から、リストは、彼の刑法思想や刑法理論を象徴するいくつかの名言を残している。「刑法は犯罪者のマグナ・カルタである」「罰せられるべきものは、行為ではなく行為者である」「社会政策は最良の刑事政策である」などがそれである。

 ところで、リストは、新派刑法学の中心的存在として、ベルギーのプリンス、オランダのハメルらとともに1888年に「国際刑事学協会」を設立するなど、新派の思想や理論を国際的に普及する活動を活発に展開した。なかでも、新派の人々は、刑法のもつ刑事政策的機能を重視する立場から、各国における刑法改正や監獄改良に対しさまざまな提言を行い、それらにおいて果たした役割は非常に大きい。

[名和鐵郎]

理論的対抗関係

以上に述べてきた新旧両派の争いをめぐる歴史的系譜からも明らかなように、旧派・新派それぞれの内部においても、かなり大きな思想的および理論的な違いがみられる。とくに、「旧派」とよばれるなかでも、前期旧派と後期旧派では大きな違いがある。しかし、新旧両派の争いといわれる場合、20世紀初頭におけるリストとビルクマイヤーの間で戦わされた論争がもっとも典型的かつ全面的であるために、この両者の論争を契機とするその後の両学派の対立が念頭に置かれてきたといえる。ただ、ビルクマイヤーは、前述した後期旧派に属する学者であり、彼に賛同する人々も理論的には後期旧派に属するから、「新旧両派の争い」とは、一般に新派と後期旧派の争いである、といえるのである。このことを前置きしたうえで、両派の理論的な対抗関係を概観しておこう。

(1)犯罪者を含む人間観につき、旧派は、形而上(けいじじょう)学的立場から、自由意思の存在を肯定するのに対して、新派では、実証的立場から、自由意思を否定し、犯罪を犯すか否かは決定されていると考える(自由意思肯定論・非決定論か、自由意思否定論・決定論か)。

(2)犯罪の根拠(原因)につき、旧派は、個々の犯罪行為が犯罪者の自由な決断に裏づけられているから、現実に発現された個々の行為(結果を含む)の客観的な働きが重視されるのに対して、新派では、犯罪は行為者の反社会的危険性の必然的産物であるから、行為に徴表された行為者の主観における反社会的性格こそ重視されるべきであると主張する(現実主義・行為主義・客観主義か、徴表主義・行為者主義・主観主義か)。

(3)犯罪に対する行為者の責任につき、旧派では、犯罪は自由意思の所産であるから、責任はこの自由な意思決定に対する道義的非難でなければならないとするのに対して、新派では、犯罪は行為者の反社会的性格の必然的産物であるから、責任はこのような性格に帰せられるべきであるが、犯罪者も社会の一員である以上、自らの危険性に対する社会防衛処分を受忍すべき地位にあると考えられる(意思責任・道義的責任か、性格責任・社会的責任か)。

(4)犯罪に対する刑罰の本質につき、旧派は、犯罪という強く非難されるべき行為を犯した以上、犯罪者は当然の報いとして制裁(刑罰)を受けるべきであり、罪をあがなうべきであると解するのに対して、新派では、刑罰は犯罪予防のための手段でしかなく、犯罪者を教育し、改善するために科されるものと解される(絶対主義・応報主義か、相対主義・目的刑主義か)。

(5)刑法のもつ刑事政策的機能につき、旧派は、刑罰という制裁(苦痛)により、一般人を犯罪から遠ざけることを重視するのに対して、新派では、犯罪者の教育・改善が重視される(一般予防主義か、特別予防主義か)。

[名和鐵郎]

歴史的教訓

近代刑法学の成立以降、前期旧派→後期旧派→新派という刑法学の歴史を概観したが、このような刑法学が歴史的に大きな試練にたったのは、ファシズム期であった。とくに新旧両派の激しい理論的対立にもかかわらず、両派のもつ弱点を最大限に政治的に利用したのが、ドイツや日本におけるファシズムであった。ファシズム期の刑法は、旧派の刑法理論における国家主義的・権威主義的側面と新派の刑事政策的思想における非法治国的・政策的側面とを政治的に統一し、刑法や刑事政策をフルに利用して、国民の自由や人権を圧殺していった。ドイツでは、キール学派(ダーム、シャフシュタインなど)が、「自由主義刑法か権威主義刑法か」のスローガンのもとに、法の機能は民族的倫理秩序の維持・強化にあるという立場から、犯罪は民族的倫理秩序に対する裏切りであるとして、一方では、旧派的な道義的責任の追及を徹底するとともに、他方では、心情刑法・行為者刑法とよばれる新派的な主観主義刑法により罪刑法定主義を空洞化していった。さらに、これによって対処しえない場合には、これまた新派的な保安処分など社会防衛的処分を最大限に利用した。わが国でも、事情はまったく同じであり、治安維持法に典型的にみられるように、天皇制や私有財産制と矛盾する思想や行動を幅広く犯罪とし、厳しい刑罰で臨むとともに、この欠陥を補うために、保安処分につながる「保安拘禁」の制度をフルに活用した。

 戦後の刑法学は、前記のようなファシズム期の刑法や刑法学をどのように反省し、克服するかが最大の課題であった。戦後のドイツやわが国において、罪刑法定主義(法治国原則)や客観主義刑法が高唱されたり、「自然法の再生」を目ざす目的的行為論が大きな影響力をもったり、さらには、安易な刑事政策的思想が反省されるに至ったのも、まさに前記のような苦い経験があったからにほかならない。そうだとすれば、戦後において「学派の対立の止揚」がさまざまな形で主張されてきたが、ファシズム期の刑法や刑法学に対する総括を抜きにした安易な妥協は許されないであろう。

[名和鐵郎]

『大塚仁著『刑法における新・旧両派の理論』(1957・日本評論社)』『三井誠・町野朔・中森喜彦著『刑法学のあゆみ』(有斐閣新書)』

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