勝田主計(読み)ショウダ カズエ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「勝田主計」の解説

勝田 主計
ショウダ カズエ


肩書
蔵相,文相

別名
俳号=勝田宰州 勝田明庵

生年月日
明治2年9月15日

出生地
伊予松山(愛媛県)

学歴
東京帝大法科大学政治科〔明治28年〕卒

経歴
大蔵省に入り、29年高文合格、31年函館税関長、34〜37年フランス、ロシアで財政経済を調査。帰国後文書課長、40年理財局長、大正元年桂太郎内閣の大蔵次官、3年貴院議員、4年朝鮮銀行総裁。5年再び大蔵次官、同年寺内正毅内閣の大蔵大臣となり、積極財政を推進。中国北方政権(段祺瑞)を相手に西原亀三と組み西原借款を成立させた。13年清浦奎吾内閣で再び蔵相となり、昭和3年田中義一内閣の文相、14年内閣参議。太平洋戦争開戦で「日本は滅びる」と絶望したという。正岡子規とは少年時代からの友人で勧められ常盤会寄宿舎の句会に参加。以後俳句作りに没頭、3万2000句に達した。著作に「黒雲白雨」「ところてん」「宰州句日記」「宰州500句」などがある。

没年月日
昭和23年10月10日

家族
四男=勝田 龍夫(日本債券信用銀行会長)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「勝田主計」の解説

勝田 主計
ショウダ カズエ

明治〜昭和期の財政家,政治家 蔵相;文相。



生年
明治2年9月15日(1869年)

没年
昭和23(1948)年10月10日

出生地
伊予国松山(愛媛県)

別名
俳号=勝田 宰州,勝田 明庵(ショウダ メイアン)

学歴〔年〕
東京帝大法科大学政治科〔明治28年〕卒

経歴
大蔵省に入り、29年高文合格、31年函館税関長、34〜37年フランス、ロシアで財政経済を調査。帰国後文書課長、40年理財局長、大正元年桂太郎内閣の大蔵次官、3年貴院議員、4年朝鮮銀行総裁。5年再び大蔵次官、同年寺内正毅内閣の大蔵大臣となり、積極財政を推進。中国北方政権(段祺瑞)を相手に西原亀三と組み西原借款を成立させた。13年清浦奎吾内閣で再び蔵相となり、昭和3年田中義一内閣の文相、14年内閣参議。太平洋戦争開戦で「日本は滅びる」と絶望したという。正岡子規とは少年時代からの友人で勧められ常盤会寄宿舎の句会に参加。以後俳句作りに没頭、3万2000句に達した。著作に「黒雲白雨」「ところてん」「宰州句日記」「宰州500句」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「勝田主計」の意味・わかりやすい解説

勝田主計 (しょうだかずえ)
生没年:1869-1948(明治2-昭和23)

明治・大正・昭和期の財政家,政治家。伊予松山に生まれ,松山中学校,一高を経て1895年帝国大学法科大学卒業,大蔵省に入る。入省後は税関検査官,函館税関長,臨時国債整理局長,理財局長を歴任し,この間ロシアの財政経済事情の調査,日露戦争後の国債整理,東洋拓殖会社,朝鮮銀行設立等の任にあたった。1915年寺内正毅朝鮮総督の要請で朝鮮銀行総裁に就任,翌年寺内内閣組閣とともに大蔵次官,大蔵大臣に任ぜられた。第1次大戦下の好況,国際収支の好転という条件のもとで,勝田は〈内は生産事業の促進を助長し,外は海外発展を伸長する〉積極財政を展開したが,その中心は対中国進出におかれ,西原借款を代表とする巨額の対中国借款を外務省,横浜正金銀行との間に軋轢(あつれき)をひきおこしつつ成立させた。その後24年には清浦奎吾内閣の蔵相に就任して震災外債の成立に努め,28年には田中義一内閣の文相,戦時中は興亜委員会委員,内閣参議,大東亜建設審議会委員となった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「勝田主計」の意味・わかりやすい解説

勝田主計
しょうだかずえ
(1869―1948)

明治・大正期の大蔵官僚、政治家。明治2年9月15日伊予(いよ)国(愛媛県)松山に生まれる。帝国大学法科大学卒業後、大蔵省に入り、国債整理局長、理財局長などを歴任し、1914年(大正3)大蔵次官で退官、貴族院勅選議員となる。1915~1916年朝鮮銀行総裁。1916年10月寺内正毅(まさたけ)内閣のもとで大蔵次官、ついで同年12月大蔵大臣に就任、第一次世界大戦中の好況と外貨蓄積を背景に、積極財政を展開し、対中国投資(西原借款)を企画、実現した。さらに1924年1月に清浦奎吾(きようらけいご)内閣の蔵相、また1928年(昭和3)5月からは田中義一(たなかぎいち)内閣の文相を務めた。若いころ正岡子規(まさおかしき)と交わり、俳句を趣味とした。昭和23年10月10日没。

[大森とく子]

『勝田龍夫著『中国借款と勝田主計』(1972・ダイヤモンド社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「勝田主計」の意味・わかりやすい解説

勝田主計
しょうだかずえ

[生]明治2(1869).9.5. 愛媛
[没]1948.10.10. 東京
財政家,政治家。東京帝国大学卒業後,大蔵省に入り,大蔵次官,朝鮮銀行総裁を歴任,1916年 12月寺内正毅内閣の蔵相に就任した。蔵相在任中,寺内内閣の段祺瑞内閣援助政策に関与,その後,清浦奎吾内閣の蔵相,田中義一内閣の文相をつとめ,39年平沼騏一郎内閣の内閣参議となり,戦時体制強化に協力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「勝田主計」の解説

勝田主計 しょうだ-かずえ

1869-1948 明治-昭和時代前期の官僚,政治家。
明治2年9月15日生まれ。大蔵省にはいり,理財局長をへて大正元年次官。4年朝鮮銀行総裁。寺内内閣,清浦内閣で蔵相,田中義一内閣で文相をつとめ,蔵相時代には,中国へのいわゆる西原借款や,震災外債の発行をおこなった。貴族院議員。昭和23年10月10日死去。80歳。伊予(愛媛県)出身。帝国大学卒。

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367日誕生日大事典 「勝田主計」の解説

勝田 主計 (しょうだ かずえ)

生年月日:1869年9月15日
明治時代-昭和時代の官僚;政治家
1948年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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