ロシア連邦に属する共和国。ロシア南西部、大カフカス山脈の北側に位置する。正称は北オセチア・アラニア共和国Республика Северная Осетия-Алания/Respublika Severnaya Osetiya-Alaniyaという。面積8000平方キロメートル、人口71万0275(2002センサス)。首都はウラジカフカス(1931~1944年と1954~1990年はオルジョニキーゼ、1944~1954年にはザウジカウと称した)で、テレク川本流の広い谷と周囲の丘陵上に広がる。
[上野俊彦]
北オセチアは、ロシア・トルコ戦争後の1774年、キュチュク・カイナルジャ講和条約(クチュク・カイナルジ条約)によりロシア領に編入。ロシア帝国は、1784年要塞(ようさい)ウラジカフカスを建設、さらに大カフカス山脈を越え、ジョージア(グルジア)のチフリス(現、トビリシ)に至るジョージア軍事道路を建設して(1799年開通)、ウラジカフカスをカフカス支配の拠点とした。1921年1月山岳自治ソビエト社会主義共和国に属するウラジカフカス(オセチア)管区として設立され、1924年ロシア連邦社会主義共和国に属する自治州となり、1936年自治共和国に昇格してセベロ・オセチア自治ソビエト社会主義共和国Северо-Осетинская АССР/Severo-Osetinskaya ASSRと名のった。ソ連崩壊(1991年12月)に先だつ1990年12月、自治共和国最高会議は国家主権宣言を採択。1993年11月政体と名称を変更して、ロシア連邦に属する北オセチア・アラニア共和国となった。
[上野俊彦]
国土は大カフカス山脈北側斜面の山地、丘陵、平野からなる。大カフカス山脈の分水嶺(ぶんすいれい)上を通る国境を挟んでその南側はジョージアに所属する南オセチア自治州である。テレク川本・支流の最上流部が国内を北流し、同川はのち東流してカスピ海に注ぐ。気候は温暖な大陸性気候で、平均気温は1月零下4℃、7月20~24℃。年降水量は400~800ミリメートル。
[上野俊彦]
1989年国勢調査による民族構成は、オセット(オセチア)人(33万4876、53.0%)、ロシア人(18万9159、30.0%)が主である。オセット人はイラン語系諸族の混交により形成された民族とされ、オセット(オセチア)語はイラン語系の言語である。オセット人の宗教はおもにロシア正教で、一部はイスラム教スンニー派である。
[上野俊彦]
おもな工業は、非鉄金属、電気機器、機械器具、化学、食品加工、軽工業、木材加工、ガラス工業。農業では、小麦、トウモロコシ、大麦、ヒマワリ、野菜、ジャガイモ、果樹、ブドウの栽培と、乳・肉用家畜やヒツジの牧畜、養豚、養鶏が行われている。
[上野俊彦]
隣接するチェチェン、イングーシェチア両共和国は、かつてロシア連邦社会主義共和国に属するチェチェノ・イングーシ自治共和国として設立されたが、1944年ドイツ軍に協力したとして自治共和国が廃止され、住民は中央アジアに強制移住させられた歴史をもつ。その跡地にはオセット人が移住した。チェチェノ・イングーシ自治共和国は1957年に復活するが、オセット人が多く移住したウラジカフカス南郊のプリゴロドヌイ地区が北オセチア領として残された。そのため同地に帰還したイングーシ人とオセット人の対立が生じ、オセチア問題が発生した。ついにソ連崩壊(1991年12月)後の1992年10月武力衝突が起こり、結局、北オセチア領内の全イングーシ人5万人がイングーシェチア共和国へ退去させられることになった。
またジョージアとの国境をはさむ南北オセチアに分かれて居住するオセット人の間には、南北オセチアの統一要求が存在し、とくに南オセチアは1990~1992年ジョージアとの間でその地位と帰属をめぐって紛争を起こしたこともあって、この地域は隣接するチェチェン紛争とともに不安定な状態にある。チェチェン独立派武装勢力によるテロは近年激しさを増している。2004年9月1~3日には、北オセチアのべスランで、武装グループが学校を占拠、人質多数をとりロシアにチェチェンからの撤退を要求する事件が発生、ロシア治安部隊に制圧されたが、300人以上の犠牲者を出した。
[上野俊彦]
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