茨城県北東部の福島県境にある市。1956年(昭和31)磯原(いそはら)、大津、平潟(ひらかた)の3町と南中郷(みなみなかごう)、関南(せきなみ)、関本(せきもと)の3村が合併して市制施行し、茨城市と称したが、ただちに北茨城市と改称。市域の70%は阿武隈(あぶくま)高地に属し、東部は丘陵や台地および大北(おおきた)川などの小河川流域平野で、海岸は断崖(だんがい)をなす岩石海岸と砂浜海岸である。海岸部は温暖であるが、山地の冬は寒さが厳しい。JR常磐(じょうばん)線、国道6号が通じ、常磐自動車道の北茨城インターチェンジがある。古くから奥州への通路にあたる要地で、関所が設けられ、中世は佐竹氏、近世は水戸藩と棚倉藩(たなぐらはん)に分かれており、平潟は棚倉藩の外港として繁栄していた。近年まで常磐南部炭田の中心であったが、1971年までにすべて閉山した。かわって産炭地域振興の優遇措置を受けた磯原工業団地のほか、中郷工業団地、上相田(かみそうだ)工業団地がつくられ、電気機械、化学、ゴムなどの工業が発達した。大津、平潟はイワシ漁業と水産加工業では県下有数である。景勝地が多く、なかでも五浦(いづら)は岡倉天心(てんしん)の日本美術院の遺跡(茨城大学五浦美術文化研究所)や横山大観(たいかん)別荘跡がある海岸の観光地で、県立天心記念五浦美術館が1997年(平成9)に開設された。花園(はなぞの)山と花園渓谷はシャクナゲ群落や七ツ滝をもつ景勝地で、花園花貫(はなぬき)県立自然公園に含まれる。大津の御船祭(国指定重要無形民俗文化財)や、盆船流しなど文化財も多い。磯原には童謡詩人野口雨情(うじょう)の生家がある。面積186.79平方キロメートル、人口4万1801(2020)。
[櫻井明俊]
〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では津波に襲われた磯原町、大津町、平潟町地区を中心に死者10人・行方不明1人、住家全壊188棟・半壊1336棟を数えた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。
[編集部 2019年10月18日]
『『図説北茨城市史』(1983・北茨城市)』
茨城県北東端の市。1956年磯原,平潟,大津の3町と周辺3村が合体,市制。人口4万7026(2010)。北は福島県に接し,東は太平洋に臨む。市域の大半は阿武隈高地が占め,平地はその東麓を形成する海岸段丘面に位置する。中心市街の磯原は,近世,岩城相馬(いわきそうま)街道の宿場町で,異国船遠見番所が設けられていた。平潟は棚倉藩の表玄関,東廻海運の中継港として栄え,大津は水戸藩一の漁港としてにぎわった。幕末から山麓部での石炭採掘が始まり,1897年日本鉄道海岸線(現,JR常磐線)の田端~平(たいら)間開通で炭鉱操業が急進し,常磐南部炭田(常磐炭田)の中核となった。最盛期には20に近い炭鉱が操業したが,エネルギー革命に伴う相次ぐ炭鉱閉山は,失業者の増加,商業機能の停滞などをもたらし,地域住民に深刻な打撃を与えた。近年その打開策として大規模な工業団地,住宅団地の建設が進められ,1988年には常磐自動車道が開通し,電気機器など多くの企業が進出している。県境に近い五浦(いづら)海岸には岡倉天心ゆかりの日本美術院旧跡があり,自然景観保全が行われている。北西部の花園渓谷は新緑と紅葉の美しさで知られ,花園花貫県立自然公園に含まれる。
執筆者:中川 浩一
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