イスラム共同体のこと。このウンマに対して邦訳コーランではしばしば〈民族〉の訳語が当てられ,また現代アラビア語でも世俗的には〈民族〉〈国家〉の意味に用いられている。確かにコーランでは,ウンマの結合範囲が民族や部族と重なりあう場合があるが,ウンマ=部族・民族ではない。ウンマがコーランにおいて意味をもつのは,民族・部族そのものとしてではなく,神が人類救済の歴史の中で使徒を遣わし,人間に呼びかけるその単位集団としてである。大部分のウンマはこの呼びかけを拒み,神の命令にそむいて神罰を受け,滅びた。しかし,あるウンマは使徒を受け入れた。モーセのウンマ,イエスのウンマである。これらはおのおの〈律法の書〉〈福音書〉を神から与えられ,〈啓典の民〉と呼ばれている。しかし,彼らも互いに対立し,啓典を隠蔽・改ざんし,あるいは使徒を神格化して道を踏み誤ったといわれる。そこで最後に遣わされたのがムハンマドである。そしてムハンマドのウンマは神の啓典コーランを正しく保持し,それを正しく実践するものとして出発した。こうしてウンマは元来,普通名詞的に用いられていたが,やがて〈ムハンマドのウンマ〉に限定して用いられるようになる。この〈ムハンマドのウンマ〉こそ神の下した真理を正しく地上に具現するものであり,正義の行われる理想社会の実現を目指し,神のよしとする祝福された聖なる共同体として,その全人類的使命が強調される。これはとくにヒジュラ後メディナにウンマが現実に成立してからの啓示に顕著にみられる傾向である。とはいえ,このウンマと神々の特殊な関係は無条件的なものではなく,ウンマが神の命令に従順であり,その使命を忠実に遂行しているかぎりにおいてである。このことは,ウンマの成員が一方ではその現実の共同体をよりいっそうイスラム的にし,他方ではそのような正義の共同体を外に向かってよりいっそう宣揚し拡大するよう努力する義務を神に負っていることを意味する。これが歴史の中のウンマの発展とその動態の基底にあるものである。
このウンマの理想は後にシャリーアとして具体化された。このシャリーアが人間の日常生活の包括的規範である以上,ウンマは人間の〈霊的〉結合体にとどまらず,日常の生活規範をも共有する人々の結合体でもあるだけに,その結合は密である。しかし反面,宗教的対立が直ちに政治的対立となりやすく,逆に政治的争いが宗教の問題に解されやすい。このため,多民族国家を1人のカリフが一つのシャリーアのもとに統治するというウンマの理想的形態が,ほぼ完全に近い形で実現したのは,アッバース朝(750-1258)の初期までである。その後は地理的・民族的制約によって,現実のウンマは政治的に分裂してしまい,さらに今日では民族国家の成立と,トルコにおける1924年のカリフ制の廃止によって,ウンマの統一は遠い夢となってしまったが,それが過去の栄光として,ムスリムに訴える潜在的力は大きい。
執筆者:中村 廣治郎
メソポタミア最南部のシュメール都市。現在名ジャウハJawkha。イラク南東部にあり,本格的な発掘は実施されていない。前3千年紀中葉まで小邑にとどまっていたが,初期王朝III期に急激に発展,とりわけIII期後半にはエナカレなどの支配者が出て,エディンと呼ばれる沃野の帰属,運河の水利権をめぐって隣都市ラガシュと抗争した。ただしエアンナトゥム〈禿鷹碑文〉に代表されるラガシュ史料に抗争経過が記されているほかは,ウンマ文書は乏しく,この時期の政治・経済制度も不明である。初期王朝III期末にはルガルザゲシが出現,宿敵ラガシュの支配者ウルカギナを倒すほか,各地を占領,のちルガルザゲシはウルクに拠点を移し,碑文で地中海にいたるまでの軍事平定を誇示したが,アッカドのサルゴンに敗れた。アッカド時代のウンマからはかなりの行政文書が出土しているほか,つづくウル第3王朝時代の文書が無数に存在し,精細な都市研究が可能である。それ以降はほとんど居住されていない。
執筆者:前川 和也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
イスラム教の信仰共同体、つまり「イスラム共同体」のこと。現代アラビア語では「民族」「国家」の意にも用いられる。コーランでは、最初、神が人類救済の歴史のなかで使徒(預言者)を遣わし、使信を伝えさせるその単位集団として用いられていたが、のちにはもっぱら「ムハンマド(マホメット)のウンマ」、すなわちイスラムの共同体をさすようになる。それは、神のことば(コーラン)を正しく保持して実践し、その限りにおいて神のよしとする祝福された共同体として出発した。このことは、ウンマの成員が、一方ではその現実の共同体をよりいっそうイスラム的にし、他方ではそれを外に向かって宣揚し拡大するために努力する義務を負っていることを意味する。これがウンマの歴史的展開とその動態の基底にあるものである。このウンマの理想はのちにシャリーア(イスラム法)として具体化される。このシャリーアが人間の日常生活の包括的規範であるように、ウンマは人間の「霊的」結合体にとどまらず、現実には日常の生活規範をも共有する生活共同体であるだけに、その結合は密である。それだけに宗教的対立はただちに政治的対立となり、政治的争いが宗教の問題となる。ウンマはその性質上つねに国家を志向するが、1人のカリフが一つの法の下に統治する多民族的単一国家のウンマがほぼ理想に近い形で実現したのは、アッバース朝(750~1258)の最初の1世紀までである。その後は政治的に分裂し、今日では民族国家に分かれ、ウンマの統一は遠い昔の夢となってしまったが、それが過去の栄光と結び付いた理想としてムスリム(イスラム教徒)に訴える力は大きい。
[中村廣治郎]
イスラーム共同体。元来,コーランで広く宗教共同体,つまりキリスト教徒やユダヤ教徒を含め,預言者を通じて神の啓示に呼応した信徒の集団をさす言葉。イスラームのウンマはヒジュラによって政治的に独立し,正統カリフ時代,ウマイヤ朝を通じて軍事的に拡大した。アッバース朝カリフは,単一の世俗国家によるウンマの統一を象徴する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…そのようなものとして,シャリーアはまた特殊な人に限定されるのではなくて,未成年や禁治産者などを除いて,原則として共同体の成員すべてに等しく適用される規範である。イスラム共同体(ウンマ)とは,このシャリーアの理念の地上的表現として意味をもつ。 このようにシャリーアは実定法的側面を含むとはいえ,本質的には信仰者の当然従うべきものとしての道徳的義務論である。…
…帰国後,《官報al‐Waqā’i‘ al‐miṣrīya》の編集長,翻訳局長などを務め,ナポレオン法典やモンテスキューの著作などを翻訳し,ブーラークBūlāq印刷所からイブン・ハルドゥーンなどのアラビア語古典を出版した。また自ら精力的な著作活動を行って,イスラムの伝統的概念を駆使しつつ,伝統的ウンマ理念に代えてワタン(祖国)と新たなウンマ理念(国民)を強調するなどきわめて開明的な思想を展開した。【加藤 博】。…
…メディナのユダヤ教徒の集団は次々と追放ないし撲滅されていった。ムハンマドがメディナでつくった社会はウンマと呼ばれ,後世のイスラム教徒にとって理想の社会とみなされる。ムハンマド没後,メディナは広大な世界を征服・統治するカリフの本拠地となった。…
※「ウンマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新