江戸時代、大坂の両替商(本両替、南両替、銭両替)を統制するため、本両替仲間の行司(ぎょうじ)から選任され、公用を勤めた代表的両替商。1662年(寛文2)幕府が初めて小判(こばん)の買入れを天王寺屋五兵衛(てんのうじやごへえ)ほか2名の両替屋に命じ、70年、鴻池(こうのいけ)、平野屋(ひらのや)などを加えてその数が10名となったことから呼称されるようになった。しかし、10名は定数ではなく、7名ないし5名に減少した時期もあった。大坂を中心とした手形取引の統制や金銭相場の監督・報告、本両替仲間の取締りを主業務としたが、幕府御用金調達には大きな役割を果たした。その選任は大坂町奉行(まちぶぎょう)が行い、報酬として帯刀が許され、家役が免ぜられた。
[岩橋 勝]
近世の大坂で本両替屋仲間行司のうちから選任され,御用を勤めた者。1662年(寛文2)天王寺屋五兵衛・小橋屋浄徳・鎰屋(かぎや)六兵衛の3人に輸出用小判買上を命じたのを端緒とし,70年大坂東町奉行石丸定次らが金融の統制をはかるため,資産・徳望ある10人を十人両替として登用したことから正式に発足した。その後も本両替仲間行司のうちから幕府が選任したが,実際には10人の定員に満たないことが多い。帯刀や家役減免などの特権があるが,煩雑な職務のため忌避されたからである。職務は,本両替仲間の紛争仲裁などの統轄,公金取扱い,金銀相場の報告など奉行所との連絡,新旧貨幣引替え,金銀相場・米価の調節,御用金上納関連の業務などであった。
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…銀手形は近世の大坂が江戸の金遣い(きんつかい)経済に対し銀遣い経済であり,そこでの大量の商取引には丁銀(ちようぎん),豆板銀(まめいたぎん)などの秤量(ひようりよう)銀貨が使われたが,その銀貨は秤量の煩雑,携帯・運送の不便,真贋鑑定の困難を伴い,かつ正貨決済にも不便なことから使われたのである。寛文期(1661‐73)に,大坂諸商業に対する正規の作成,問屋・十人両替の組織化が東町奉行石丸定次によって計られ,この十人両替にその後中小の両替屋が結び,近世の信用機構,信用制度が拡充されると,銀手形はよりいっそう流布した。江戸中期ころから,計量貨幣の金銀貨が通用したが,大坂では手形の使用が盛んで,大坂近在や隔地間の取引をはじめ,都市内の薪炭から米魚に至る節季の支払にまで用いられた。…
…姓は大眉氏。初代光重(1623‐94)は大坂に盛行した手形の創始者と伝えられ,1670年(寛文10)同地に組織された十人両替に選任された。以後天王寺屋は幕末までほぼ一貫してその地位にあり,幕府の御用両替として公金の出納を取り扱うとともに,雲州松平家,讃州松平家などの蔵元,掛屋を務めるなど,金融業界きっての名門であったが,明治維新の経済変動により倒産した。…
…両替屋名称の公認はこの年のことである。大坂には幕府公金の出納・貸付けを担当した十人両替,本両替(仲間両替),銭売買のみを務めた銭両替(南両替,三郷銭屋仲間)がいた。3者の間には上下関係,取締り関係がある。…
※「十人両替」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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