十干十二支(じっかんじゅうにし)(読み)じっかんじゅうにし

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

十干十二支(じっかんじゅうにし)
じっかんじゅうにし

略して干支(かんし)といい、日本では「えと」という。干支の知識は中国に発生したものが、朝鮮を通じて日本に移入された。中国では干支の知識は古代からあったが、それを年暦に用いたのはずっと遅く、前漢時代(前202~後8)といわれている。日本に大陸より暦法が伝えられたのは、『日本書紀』によれば、553年(欽明天皇14)に内臣を百済(くだら)に遣わして暦書を求めしめたのが最初という。しかし実際に暦法が政治のうえに採用されたのは推古(すいこ)朝になってからである。602年(推古10)に百済の僧観勒(かんろく)が来朝して暦本を伝え、それによって書生が暦法を学んだのである。

 伊勢貞丈(いせさだたけ)の『安斎随筆(あんさいずいひつ)』に、「十干十二支の名神代(かみよ)より応神(おうじん)天皇御代(みよ)王仁(わに)が来朝以前までしらずして有りしなるべし。彼(か)の御代十六年に王仁来りて其(そ)の百済国乙巳(おっし)の年なるをもつて日本も乙巳の年なることを始めて知りて夫(それ)より年々幹支を知りて逆に推して神代の幹支をも知りしなるべし」とある。干支の干は幹であり、支は枝であるという。十干は甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)をいい、十二支は子(し)(ね)、丑(ちゅう)(うし)、寅(いん)(とら)、卯(ぼう)(う)、辰(しん)(たつ)、巳(し)(み)、午(ご)(うま)、未(び)(ひつじ)、申(しん)(さる)、酉(ゆう)(とり)、戌(じゅつ)(いぬ)、亥(がい)(い)をいう。この十干と十二支を組み合わせて暦日(れきじつ)を数えるのであるが、かりに甲子(きのえね)の年から始めると10と12の最小公倍数が60なので、61年目にふたたび甲子となる。それで数え年61歳となると還暦(かんれき)の祝いをする風習が始まった。これに陰陽五行説が結び付き、十干を陽干すなわち兄(え)〈甲丙戊庚壬〉と陰干すなわち弟(と)〈乙丁己辛癸〉とに分け、これに五行すなわち木、火、土、金、水を配して、きのえ(甲)、きのと(乙)、ひのえ(丙)、ひのと(丁)、つちのえ(戊)、つちのと(己)、かのえ(庚)、かのと(辛)、みずのえ(壬)、みずのと(癸)と称している。

 以上記述したように日本では干支五行説によって暦年月日を数えることが行われてきた。ただ数字による暦日の数え方と違い、このように自然物動物を用いた名称はいろいろな俗信を生じがちであり、人生百般の事柄について日の吉凶ということを気にするようになっている。

 十二支の動物は中国のものをそのまま移入したようであるが、中国でなぜそれらの動物を採用したかはよくわからない。「子」「丑」などという十二支の漢字には本来動物の意味はなかったようである。

[大藤時彦]

『諸橋轍次著『十二支物語』(1977・大修館書店)』


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